Qorretcolorage - コレカラージュ

彩り重ねるコレカラの人生
大人のハッピーエイジングメディア

セカイ通信 LONDON

ロンドン・ナショナル・ギャラリーで

Text : Moe Ashikaga

– はじめまして –

「マチュア(成熟)をキーワードにコラムを書かないか」と依頼してくれたミロワの雅美さんは、わたしが13年間過ごしたベルギー時代に知り合った友人だ。

わたしは当時、「お洒落なことを一緒に楽しめるお洒落な相方」を渇望していて、そこに彗星のごとく現れたのが雅美さんだったのだ。お洒落な上に賢く、人を惹付ける特別な魅力をまぶしいほど放つ彼女とはすぐに仲良くなった。彼女が東京に帰ってしまう前後の数年間、わたしたちはコレクションで沸くパリにフィレンツェにと出かけたものだった。彼女の行く先々には抜群においしいもの、美しいもの、そしてユニークな人たちが集まっていた。

みなさま、初めまして。
モエと申します。 神戸生まれの神戸育ち。中東、北米での遊学を経て、13年間のベルギー生活の後、2011年から英国住まい。外国に縁の深い半生でしたが、将来は神戸で暮らす夢を見ています。趣味は放蕩旅行とクラシック・バレエ、好物はお鮨、そして…

わたしは自分の未熟さに日々恥じ入る類いの人間だ。

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雅美さんから「マチュア(成熟)をキーワードに…」の依頼を受け取ったその日、わたしは自分の狭量さから英国のある制度に関してぶりぶり怒っていたのだった。

朝は左側から来た車に道を譲らなかったし、昼過ぎにはロンドンのセレクト・ショップの対応がのろいと大げさにため息をつき、夜は星つきレストランで大切に扱われて簡単に機嫌が良くなった。つくづく自己中心的で浅はかなタイプだ。そんなわたしでも意識して生活すれば成熟した大人になれるのか知らん。
なりたいなあ。

– “Maturity of mind is the capacity to endure uncertainty”-

成熟とは何だろう。

シャネルの服が懐具合と心身に似合い、リッツが似合うようになることか。
あるいは手編みのセーターを着て庭の薔薇を育てながら静かに暮らすことか。

迷える子羊であるわたしでさえも、それらは成熟の木に生る果物のようなもので「成熟」そのものではないという気がする。

ジョン・フィンリーは、成熟とは「不確実性に耐えうる能力」のことだと言う。わたしはこのアフォリズムから2つの意味を考えた。ひとつ目は素直に「頼みの少ないこの世を耐え忍のぶ、あきらめる」という意味。
もうひとつは、「ある行為の結果が自分に即利益として戻ってくるわけではないが、長期的には未来の社会や大多数の人々にとっては利益として還元されそうである。確かにそうなる保証はないし、誰に誉めてもらえるわけでもないが、その不確実性に耐えて今この行為をしておこう」という意味の「不確実性に耐える」。

ひょっとしたら後者こそが「成熟」なのか。
そう言えば最近、「不確実性に耐えうる能力」に遭遇した機会があった…
この間見たナショナル・ギャラリーの展覧会でだ。

– Facing the Modern / The National Gallery, London –

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世紀末ウィーン。

この冬一番楽しみにしていた展覧会、ナショナル・ギャラリーの “Facing the Modern” 展を見学した(1月12日に終了)。

タイムマシンを使って過去を訪れることができるなら、19世紀末のウィーンはわたし の「訪問したいリスト」のトップグループに入っている。

ブロッホが「あらゆる価値が相対化される」”value vacuum” (価値の真空、もっともブロッホは悪い意味でこの語を使った)と評したように、あらゆる国からあらゆる人があらゆる価値を背負って活躍の場を求めてやって来た、コスモポリタンで自由主義的な雰囲気がクライマックスに達した時空だった。

芸術や学問の世界においては、この展覧会の主役であるウィーン分離派の画家達はもちろん、建築(ホフマン、ワーグナー!)、音楽(ブラームス、マーラー!)、文学(カフカ、ブロッホ、ムージル!)、哲学(ウィトゲンシュタイン、ポパー!)、心理学(フロイト、アドラー!)、ありとあらゆる知の巨人があらゆるところに。
限定されたエリアのそこここに有名アイコンがわらわらといる様子はユニバーサル・スタジオかディズニー・ランドのようではないか。

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まあ、タイムマシンでこの時代を訪れたとして、万が一サロンに紛れ込めたとして、現代人というアドバンスをわたしが持っているとして、しかしわたし風情では彼らと会話のレベルにもならないのは分かり切ったこと。それでも街角のカフェや美術展をのぞいたりはできるだろう…
だからわたしはタイムマシンが発明されるその日まで、読書に、美術館訪問に励むのである。

それはそうと、展覧会は、オーストリア=ハンガリー帝国(1867−1918)の首都にして絢爛たる都、19世紀末ウィーンで好まれ発達した「肖像画」(クリムト、シーレ等)を見ながら、前衛芸術家の革新的手法が勢力を蓄えた中産階級にいかに支持され、いかに旧勢力の反感を買ったか、そしてそんな社会の行く末を辿る。

話をものすごく簡単にすることが許されるならばこうだ。 当時、東欧を中心に激烈な迫害を受けていたユダヤ人が、自由主義のウィーンへ三々五々集まり、富裕な中産階級を形成し、文化のパトロンになった。しかし皮肉なことにその華麗な目立ち方が民族主義に火をつけることになり、再び反ユダヤが広がって行く。

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わたしは今の今までクリムトには興味がなかった。綺麗すぎて誰をも不快にしない作風や、社会批判が削げているという教科書的な理由で。しかし、いくつかの富裕で優美なユダヤ人女性の肖像画、特に最後に展示されている未完の”Portrait of Amalie Zuckerkandl”(部分)(写真右)、アノミー的自殺(デュルケムもこ の時代の人だ)を遂げた “Frauenbildnis (Ria Munk III)” (部分)(写真上)を見ていると、社会的な面が削げているどころか! と、突然感じた。
これらの絵から漂う、胸が塞がれるような雰囲気は何なのだろう。

キリスト教徒として生まれ、結婚のためにユダヤ教に改宗しのち離婚、最後はユダヤ人収容所で生涯を閉じた Amalie Zuckerkandl に関してそれ以上のことは知らない。知らないが、現世での浮き沈みが彼女の瞳には映り、さまざまな価値感を受け入れ、不確実性に粛々と耐えた「あきらめ」が口元に浮かんでいるように見える。

不愉快な隣人を受け入れることができず、迫害することを選んだ「未熟」なウィーン市 民に対するあきらめ?

これは彼女たちひとりひとりに固有のものだったのか?
あるいは都を包む全体の空気のようなものだったのか?
「宴の後」の薄ら暗さを予感する華やぎ。

これは「成熟」なのか。
分からない。

– もうひとつの… –

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このような特別展は有料だが、英国の主要な美術館博物館、約50館は入場無料だ。
ロンドンだけを取り上げても、ナショナル・ギャラリー、大英博物館、テイト・ブリテン、テイト・モダン、ヴィクトリア&アルバート美術館、自然史博物館… いつでも何度でも、10分間の空き時間にでも、人類史上最高の芸術を眺めに行けることに無上の喜びを感じるわたしのようなタイプには、ロンドンは極楽だ。

無料である理由が非常に政治的でかつ経済的(節税)の問題なのはそれはそれとして、無料であることによって、ナショナル・ギャラリー、大英博物館、テイト・ブリテンは世界で最も訪問されている5大博物館のうちの3つであり、有料であった頃よりも5割前後訪問数を延ばしている。 中国だかのメディアでは「(英国の)美術館博物館が無料なのは文明のしるしである」と評されたとのこと。

ま、それは大人の事情を含めて丸ごと100パーセントの真実ではないにしろ、わたしはそういう「文明」を熱烈に支持したい。だから入り口付近に設置してある「入場料無料を維持するために募金をお願いします」という箱に募金をする。
すなわち「ある行為の結果が自分に即利益として戻ってくるわけではないが、長期的に は未来の社会や大多数の人々にとっては利益として還元される…」。
成熟に向けて、小さな小さな一歩を印そう。

展覧会をふりかえって思った。
ひょっとして成熟とは「あきらめ」ではなく、人間性に対して決して「あきらめないこ と」なのかもしれない。
例えばもしもこの世に神や仏という方がおられるのなら、彼ら/彼女らは人間性に対し
て決してあきらめない方々に違いないだろう、と。

足利モエ
Moe Ashikaga
神戸生まれの神戸育ち。中東、北米での遊学を経て、13年間のベルギー生活の後、2011年から英国住まい。外国に縁の深い半生でしたが、将来は神戸で暮らす夢を見ています。
趣味は放蕩旅行とクラシックバレエ。好物はお鮨。