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憧れのレジェンドたち

木村武史
(株式会社木村硝子店3代目社長)

Text : Masami Watanabe
Photo : Kumiko Suzuki

かねてより、大先輩の生き様や言葉を書きためておきたいという思いがありました。それがついに実現!ひとつのコト以上の何かを成し遂げ、今なお現役で活躍中の人生の先輩たちの「今」「昔」「これから」のエピソードや思いについて伺いました。

木村さんは明治43年創業の日本の飲食業界ではとりわけ有名な硝子食器メーカーを経営する三代目。薄くて美しく、口当たりのよいグラスをはじめ、木村硝子店の器は多くのレストランやバーで皆さんも既に手に取っていることと思います。業界が愛してやまないガラス食器の数々を世に送り出し続けている木村社長の今までの話、そして今の話をいろいろと伺いました。

コレカラージュ(以下、コレ):最近、気がつくと木村硝子店のグラスでお酒を頂く機会が多いです。

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木村さん(以下、敬称略): お陰さまで、うちは飲食の世界では昔からわりと知られていたので、レストランやバーでは使ってくださっているところが多いですが、小売りを始めたのは最近のことなので、一般の皆様にはまだまだ知られていません。知っていると言ってもらえると嬉しいですね。

コレ:木村さんは木村硝子店の3代目ですが、若い頃からいつかは継ぐものだと考えていたのでしょうか?

木村:僕は子供の頃から積極的に家業を継ごうと考えていたほうだと思いますね。でもね、若い頃から僕自身はどこかで自分が箱入り息子だという意識を持っていて、このままではダメなんじゃないかという漠然とした不安感がありました。家の商売はそれなりに順調だったし、なんだか自分はぬるま湯に浸かっているんじゃないかってね。

コレ:若い時期に、ご自身でそんなことを思うだなんて、素晴らしいですよね。何かきっかけになるような出来事があったのでしょうか?

木村:ずっと漠然と思っていたことだから、明確な理由はないのだけれど、自分でも気がつかないうちにまわりの友人たちと彼らの家庭環境に刺激を受けていたような気がします。例えばね、立教高校時代から仲の良かった友達はお父さんが外交官で、家族全員が外国語が堪能だった。そこの家は、数寄屋造りの純日本風の邸宅だったんだけれど、やはり数寄屋造りの室内の床はフローリングで天井からはひとつも照明が下がっていなくて、すべてフロアライト。僕たちが行くときには靴は脱いでいたけれど、外国人が来ると土足で大丈夫というような家でね。遊びにいくと、夕飯をごちそうになって、そのまま泊まって、なんていうこともよくあったんだけれど、ダイニングテーブルで椅子にかけて食事を摂る。そして食後には、いつもお母さんがピアノを弾いて、お父さんがシューベルトを歌うんですよ。すごいなぁ、と思いましたよ(笑)。

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コレ:それは高尚ですね(笑)。

木村:でしょう(笑)。それでね、泊まった翌朝の朝食はオートミールだったりするわけ。僕なんか、毎回カルチャーショックでね(笑)。だって、僕の家では毎日畳の座敷でちゃぶ台を囲んで食事をしていた。つまり、椅子の生活ではないでしょう。朝食のメニューだって、生卵や納豆のような、ごく一般的なものだったから、普段の生活とまるで違う。だから、彼の家に遊びに行くのがいつも楽しみだった。こんな世界があるんだなって、刺激的だったわけです。

コレ:十代の若者には、とても貴重な体験ですね。当時、外観も室内も数寄屋風の純和風で生活は洋風であったなんて、かなりモダンだったのでしょうね。素敵!

木村:他にもね、大学時代に僕は有名な作曲家の従姉妹と仲が良かったんですね。彼女の実家は、今の原宿(神宮前)の広大な敷地の中にあって、それはそれは広くて、お洒落でした。そこでも、僕はよく美味しい食事をごちそうになっていて、興味深い体験をした思い出がたくさんあります。当時ね、彼女のお父さんは大学の学長で、お母さんは有名女子大の教授だった。つまり、とてもアカデミックな家庭環境で、食卓での会話もすごかった(笑)。僕はもう静かに、ただひたすらご飯を食べる・・・というかんじ。「あら、木村くん、随分とおとなしいじゃない?」なんて、言われちゃってね(笑)。

コレ:その体験もまた凄そうですね(笑)。

木村:ここでも、僕は色々と感じるものがあって、僕だけボーッと過ごしていたらダメだなぁ、このままではいかんなぁと真剣に思い始める。それで、ちょうどそんなことを考え始めていた矢先に、先程話に出た父親が外交官の友人から、「俺たちは、このまま恵まれた生活を続けて社会人になってしまったら、世の中で何かが起こった時に這い上がれない人間になってしまうのではないか」という問題提議があって、なるほどねっと思ったりしましたね。

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コレ:すごい、グッドタイミングでの問題提議でしたね(笑)。それで?

木村:そこからね、とにかく何か汚い仕事をしてみよう、みんなが嫌がる仕事をしてみようと一生懸命に職を探したのね。でも、実際に学生ができる仕事はそう多くはなくて、結局、聖路加病院のトイレ掃除のアルバイトを大学時代に2年分の夏休みをフルに使って経験しました。

コレ:その体験は、いかがでしたか?

木村:そのときの僕たちは、“汚い仕事ができないようではダメだ!”と思い込んでいるから、それはもう毎日、一生懸命にトイレ掃除をしましたよ。今となっては、よい思い出(笑)。

コレ:木村さん自身もご友人たちも、好奇心旺盛だったんですね。それで、大学を卒業して、すぐに家業を継ぐことに?

木村:立教時代の僕のまわりの友人たちは、どこか不思議で変わっている奴らが多かったね。僕自身も、かなりあまのじゃく(笑)。だから、就職を決める時も、父親に言わずに勝手に実家の得意先の取引先にあたる会社に就職することを決めてしまった。父親は、当たり前のように自分の会社で働きながら仕事を覚えさせようと考えていたので、ものすごく怒っていたし、猛反対されました。でもね、僕はどうしても父親とは違う物差しで仕事をする社長の元で働いてみたいと思ったし、そういうところで修行するほうが自分のためにも良いと本気で思ったんですね。

コレ:では、お父様の猛反対を押し切って、修行に出られたのでしょうか?

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木村:はい。それも、大阪にある会社に住み込みでね。

コレ:大阪ですか。そこはご実家と同じように硝子会社(メーカー)だったのですか?

木村:いや、うちとは違って、そこは飲食店を中心に食器を卸す問屋さん。当時、既に木村硝子店といえば、飲食業界ではそこそこ名が通っていたので、木村の息子だということは社長以外には隠して、働かせてもらうことにしました。とにかく、そこではいろいろなことに挑戦し、たくさんの経験を積もうと思って単身大阪に引っ越したわけです。

コレ:実際に大阪ではどんな業務を行なったのですか?

木村:もともと営業職に苦手意識を持っていたので、むしろ積極的に営業にチャレンジしました。最も苦手な飛び込み営業にも挑みましたよ。そういう中で、生粋の大阪の人々とコミュニケーションを重ね、最後には関東人が知らない大阪人をチョット解るようになった気がします。

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コレ:え、それはどんなことでしょう?

木村:関東の人が大阪の人に対して持っている印象と言えば、例えば、“すぐ値切る”とかってあるでしょう(笑)。大阪に暮らして、ひとつ気づいたことは値切るのも単なる“言葉の遊び”で、この言葉のキャッチボールが大阪人の真骨頂という気がしました。実際に住んでみて大阪という土地と人に接してみると、彼らは実にあったかいことに気付く。大阪も東京も全く変わらないことは当たり前ですね、同じ人間なんだから。でも、彼らは文化的に、言葉の遊びが多い。そこが東京にはない文化。だから、ちょっと聞いただけでは厳しいことを言っているように聞こえちゃう。言葉を楽しむってなかなか良いもんですけどね(笑)。僕はね、大阪で3年間生活してみて、大阪や大阪の人の魅力を知ったと同時に、仕事の上でも3年目にしてようやく色々なものが見えてきた気がしましたね。

コレ:石の上にも三年・・・ですね?

木村:そう、まさにね。その言葉通り、1年では見えなかったことが3年目には少しずつ見えてくる。1年目は部分的だった視界が、3年目でやっと全体像が見えてくるとでも言ったらいいのかな。“石の上にも三年”は、実に良い言葉だと思ったし、それを心から実感しました。
当時、僕が担当した飲食店が大阪でトップクラスの大繁盛店で、当然ながら業者の売り込みと価格競争が激しいわけです。で、僕のとった作戦は、購入したい商材の一番安い業者の情報提供をすること。つまり「僕から買うよりあっちの会社から買ったほうが安いよ」って、言うわけです。そして何回も安い買い方を教えているうちに“値段は任せるからお前が納入しろ”ってなっちゃった(笑)。モノを買う立場にいたら、信用できる相手から買いたくなりますよね?信用を勝ち取ったお陰で、大阪なのに競争相手より高い値段で買ってもらえるようになって、大変良い経験をさせてもらいました。あの時の気持ちは今でも忘れない。すごく嬉しかった。

コレ:大阪での修業時代は、木村さんにとって収穫の多い時間だったのですね。でも、“修行”ですから、嫌な思いとかピンチとかもあったのでは?

木村:それがね、びっくりするくらいなかったんですよ。何しろ、大阪では目一杯、いろんなことを吸収しようと思って行ったわけだし、基本的にはお給料をもらいながら勉強させてもらっているというスタンスだったから、どんなことも苦ではなかったし、逆に楽しいと感じていましたね。僕の中で修行中に課していたミッションのひとつで、「従業員の気持ちを理解する/したい」という目的もあったので、みんなが嫌がる業務ほど、やる気になったし、面白いと感じるところがありましたね。例えば、みんながやりたがらない“ヤクザから未払金を回収する”なんていう業務を任されたこともありました(笑)。

コレ:わ!それはすごいですね。それで、回収はできたんですか?

木村:最終的にはしましたよ(笑)。

コレ:どうやって?(笑)

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木村:お金を払わない人が言われたくないキーワードがあることに気づいていたんです。それは、例えば「集金」という言葉。払っていないことを強調したり、意識させたりする言葉を毛嫌いする。だから、僕はそういう言葉は一切使わずに、払ってくれないお店に通い続けました。挨拶だけして帰ってくることもしばしば。でも、そういうことを続けていると、あるときから「コーヒーでも飲んでいけよ」なんて言われたり、少しずつあちらも歩み寄ってくるようになるんですね。そのうち、「悪いな。来週支払うよ」と。でも、それでほっとしていると、実はそのままスムーズには支払ってくれなかったりする。え?と、思うけど、そこで怒ったらそれまでの努力が無駄になってしまうから、じっと我慢して、さらに粘る。ここまで来たら、もう僕の粘り勝ちです(笑)。

コレ:わぁ、すごい我慢比べ。実はかなりの頭脳プレイですね(笑)。

木村:そうかもしれませんね(笑)。でもね、こういう業務も、僕は期間限定で勉強だと思うからこそ、辛いなんて思わずにできたけれど、それが本職の従業員たちはそうは思いませんね。お給料のために働いている皆さんにとってみれば、嫌な仕事でしかない。そこで、遅ればせながら、僕は社長の息子である以上、従業員の気持ちを完全に理解することはできないのだということを悟りました。それまでは、修行中に従業員の気持ちを知って東京に帰ろうと思ってたったんだけれども、結局のところ、そこを埋めることは容易でないことを思い知らされましたね。

コレ:そこに気がついた木村さんは、その後どうされるのでしょう?

木村:大阪での3年間のお給料付きの勉強を終えて、東京に戻り、いよいよ父親の会社に入ることになります。そもそも1年くらいで戻ると思っていた父親は、3年も戻らなかったことに腹を立てていた上に、「修行してみて、やっぱり従業員の気持ちはわからないことに気がついた」と話したら、「お前は3年間も何をしに行っていたんだ!」と激怒していましたね(笑)。東京に戻ってからが、実は僕にとっての本当の修行(苦行?)の始まりで、当時の社長だった父親との関係、従業員たちとの関係で、かなり悩み、苦労をしました。当時、うちの会社にはベテランの番頭さんが2人いて、僕は彼らの下で検品をしたり、荷造りしたり、発送業務を行なったり、基礎からいろいろとやりました。でも、何をやっても、会社の物差しにあてはまらなくて、いちいちトラブルになっちゃうんですよ。つまりね、僕は3年間も外の空気を吸ってきているわけで、父親とは物差しが違っちゃったわけです。父親から見たら、外国人が会社に入って来たような感覚だったと思います。さらに、僕は後継ぎという立場ですから、番頭さんや従業員たちとも当然のことながら物差しが合わないですよね。

コレ:ご実家の木村硝子店と修業先の大阪の会社とでは、企業としてのポジションや業務内容もかなり違っていたわけですよね?

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木村:そうね、全然違います。僕が働かせてもらっていた大阪の会社は、飲食店を相手に食器を販売する問屋なんです。でも実は小売店のような業態で毎日違うお客が買いに来るんですね。で、このお客の中にはいろんな人がいて、キチッとお金を払ってくれる人がほとんどなんですけれど、最初から払わないつもりで買いに来る詐欺師みたいな人がいたりするんです。だから、相手を見極めながら商売をしていかなければならないし、やっているうちに何となく“この人はやばいかな”と思うようになるんです。あれも、良い経験でしたね。逆に、木村硝子店のお得意様はまともな会社ばかりだったから、そういう見極めのできる人材が育つ環境ではないわけです。支払不能になった会社は別にして、のらりくらりと支払いを延ばしたり、際限なく支払い残高が増えていったりする会社からしっかり集金するのは、ただでさえ難しい。だから、そんな会社に対して、“ダメな会社だ”とか、“悪徳会社”としてレッテルを貼って怒っちゃう。そして、“悪いヤツだ”として高圧的な態度になっちゃう。そもそも支払いをちゃんとしない会社がいけないとも言えるので、怒ってしまうことも仕方がないんだけどね。でも、それで払ってくれる会社もあるんですが、たいていはこちらが怒れば先方も意地になっちゃうことが多い。そこで、僕が集金に行く。すると、仲良くなってお金をちゃんと貰えるようになる。そのあとは仲良くなっているから、次の注文も沢山入ってくるようになるんですが、こんなところでも物差しの違いが露呈するわけです。
そうすると、「やっぱり社長の息子はちやほやされて良いよな!!」となっちゃう。父親からは「何で従業員と仲良く出来ないんだ」なんて言われたりして、どうして良いか分からなかった。大阪でおっかないお兄さんからお金を貰うほうがナンボも楽だったかと思いました(笑)。

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コレ:努力している結果なのに、それを理解されないことはキツいですね。そんな状況の中で、木村さんはお父様や番頭さんたちを相手にどんな作戦に出たのですか?

木村:僕にも落ち度があったんでしょうけれど、どうしたら良いか全く分からなくなってしまって仕事を放棄しました。何もしなかった。もうやーめた!という感じでね(笑)。しかし、この態度では正に社長のバカ息子をやってることになりますよね。当時の僕からすれば、会社のためと思ってやることも、やっぱり物差しがまるで違っている。お得意先に挨拶をしにいくだけで、番頭さんたちは不機嫌になっちゃうし、得意先の社長に昼めしをご馳走になると「そりゃ社長の息子だからメシにも誘われるよな」というわけです。木村硝子店の息子のレッテルを外して、普通の“いち営業担当”としてメシに誘われるぐらいはごく普通のこととしか僕は思わなかったのですがね。父親も決して自分の物差しを変えようとはしなかった。今から思えば、まあ当たり前ですけどね。時代とともに商品デザインが変わっていっても、父親の作った古いデザインのグラスを売ってこいと言い続ける。「オレはこのグラスを昔から大量に売って来たのに、何で売れないんだ。売れないお前は無能だっ!」となかなかキツイ評価だった。
この時の木村硝子店の状況をチョット説明すると業績はメチャメチャ順調だったんですね。だから“バカ息子”と“社長&番頭さんグループ”の単なる派閥争いみたいなもので、儲かっていたからお客様をほっぽらかして喧嘩していられたとも言えるんです(笑)。

コレ:わ、なんだかテレビドラマみたいですね(笑)。本当に何もしないで、放棄したのですか?!それはかなり思い切りましたね。

木村:あはは。そうだよね(笑)。でもね、しばらくは本当に何もしなかったんだけれど、何もしないこと自体がたまらなく嫌になった。だから「僕は仕事をすることにします!」と今度は社内で宣言した。社長である父親に、「僕が仕事をしたら、番頭さんは反発して必ず辞めると言い出すと思いますが、それで良いですね?その時に文句は言わないでくださいよ」って釘を刺した。それからは、本当に自分のやり方で働き始めたんですね。そしたら、得意先からどんどん電話が掛かって来ちゃって(笑)。

コレ:それで、本当に番頭さんたちはお辞めになられたのでしょうか?お父様の反応は?

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木村:案の定、2人の番頭さんは2年程で辞められました。でもね、番頭さんたちは父親とともに会社を支えて来てくれた人達です。当時の売上は絶好調でしたし、やはりこれは誰が見ても社長と番頭チームが成し遂げたこと。不幸なことに会社の運営方針についての物差しが互いに違っていたけれど、彼らの実績は評価していました。僕は木村硝子店として番頭さんの事業を出来るだけサポートする約束をして、そこからは互いに同業者、ライバルとしての仕事がスタートしました。
『女に何が出来るんだ!』というのも、当時父親から時々聞く言葉でした。僕はこれをチョット利用して、その頃から優秀な女性社員やスタッフを増やして、新しい仕事を仕掛けて行きました。いつも女性と仕事をするので「女好き!」との周囲からの評価をいただきながら着々と新しい木村硝子店を作って行きました。中小企業として社員募集をして面接をすると、女性のほうが優秀な人材が多いことに気付きます。男性の優秀な人は大手の企業に就職しちゃっているので、辞めることは少ないでしょう。でも、優秀な女性で離職している人は意外と沢山いて、女性には気の毒な状況なのかもしれないですが、我々にはとても有り難いことでね。「キムラさん、ハーレム作って楽しいね」って言われながら着々と父親の目を盗んで“新しい木村硝子店”と言うか“本来あるべき木村硝子店”を模索していきました。

コレ:木村さんは女性の力を早い段階から認めていらしたんですね。そして、新しい仕掛けですか!ワクワクしますね。

木村:僕はワクワクしていましたけど地道な仕事をじわじわという感じですね。父親と番頭さんが運営していた木村硝子店の商品は飲食業界ではそこそこ流通していました。例えば、JALのファーストクラスはすべて木村のグラスだったし、大手飲食店チェーンのすかいらーくも当時は全国350店舗以上の全店舗でうちのグラスを使ってくれていました。ヒルトンホテル、帝国ホテルもほとんどが木村に注文をくれていましたので、当時は年間380万個くらいは販売していたことになります。

コレ:すごい!

木村:ただ、大口の仕事はどこか価格勝負みたいな風潮は最初から感じていたので、それほど長続きはしないと直感していました。だから深追いせず、5年くらいを目処に商売の軸をシフトしていかなくてはいけないと、わりと早い段階から考えていた。後日談だけれど、その読みはピッタリ的中したんです。それからは、大きな注文は基本的には受けないことにしています。例外で、価格に制限がないとか、無謀な取引条件を出して来ない相手先ならば考えますが(笑)。

コレ:なるほど。では、それからはまた飲食店を中心に小口から中口のオーダーでご商売されているんですね。

木村:そうです。それとね、基本的にうちは飲食業界に販売する際には間に問屋を挟んでいます。みんな、直接のほうが安いんじゃないかと直接取引をしたいと言われることが多いんだけれどね。あるとき、外資系の超一流ホテルの支配人が直々に食器を買いたいとショールームにいらっしゃったことがありました。どうしても直接取引だと言われたけれど、どうしてもできないと断ってしまった(笑)。怪訝そうな顔をされていましたけど、直接やることはうちの会社のスタイルではないし、直接の取引は手に負えないことがわかっているから、問屋さんに対応してもらっています。

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コレ:ポリシーが徹底していらっしゃるから、安全で堅実な経営が保たれるのですね。でも、最近では小売りもスタートされていますね?どうして、小売りを始めようと?

木村:時代の流れでしょうかね。実は2〜3年前にブランディングという言葉を覚えました。今さらで、ちょっと遅すぎた感じはしていますし、「キムラさん今頃そんなこと言っているの?」って笑われます(笑)。これからは一般の方たちにも“キムラガラステン”という名前を認知してもらえたらと思い始めたのがきっかけです。最近では広報活動ということも踏まえて、伊勢丹新宿店やAXISのリビングモチーフでの販売、そしてオンラインでの小売販売もスタートさせました。まだ、“ブランディング”自体を勉強中で、その言葉を使うことが正しいのかどうかもよくわからないのだけれど、例えば東京ドームで開催されているテーブルウェア・フェスティバルに来られているようなご婦人方にまでキムラガラステンの名前が浸透したら、商売の流れがガラッと変わるかもしれないなんて思ったりはしています。

コレ:では、木村さんがこれから力を注いでいくのはブランディングと小売りですかね?

木村:そうね。まだ本を読んだり、手探りだけれど、会社を息子に譲るまではもう少しその方向に突き詰めてみたいと思っています。それとね、うちのチーフデザイナーと進めているプロジェクトで「木勝」(キカツ)というシリーズがありますが、そういうこだわりのある良いものを作って残したいと思っています。ちなみにね、木勝はうちのおじいさんのあだ名。木村勝だったので、みんなに“キカツ”と呼ばれていたんですね。

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コレ:“木勝”は商品も素晴らしいけれど、ネーミングの由来も素敵です。では、木村さんはまだまだ当分は現役でお仕事を続けていかれるのですね?

木村:はい。あと何年できるかわからないけれど、まだまだやりたいことがあるから。本当は息子には僕の仕事をむしり取るくらいになって欲しいですけど、彼はまだノンビリやっているからね(笑)。僕はこれからも常に毎日を、「今」という時を楽しみながら頑張っていきます。

コレ:カッコイイです。ぜひこれからのご活躍も期待しています。最後に、私たち後輩たちにひとこと、お願いします。

木村:活字をたくさん読むと良いですよね、当たり前と言われるだろうけど。僕は活字が苦手で、あまり本も読まなかったことを少し後悔しています。だから、気になったものは調べたり読んだりしています。それとね、これは社内デザイナーにいつも言っていることなんですが、「(デザイナー)本人が嫌いなものを形にして欲しくない、そんな商品はお客様の心に届かないです」ということ。「デザイナー本人にも響いていないデザインはしないで欲しいです」「そのデザインの良し悪しは貴方に響いているかどうか、まずは貴方の心に聞いてください」ということだと思うんです。ちょっと言葉がいっぱいで解りにくいでしょうけれど、知り合いの有名広告デザイン会社の社長が『デザインするな』という本を書いています、怒られちゃうかもしれませんが、まあそんな感じです(笑)。とにかく素直に、「今」を一生懸命に楽しんで生きてもらいたいですね。息子が木村硝子店で働く前に「この仕事が好きと思えばやる、嫌いならやらないこと」と伝えました。楽しいこと、好きなことを続ければ、最後は結果良しと思っています。さぁ、皆さんはどう思われるでしょうかね。

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木村 武史
Takeshi Kimura
1943年東京生まれ
立教大学卒業後 株式会社富屋(大阪)に入社
1969年株式会社木村硝子店に入社
1983年小松誠氏デザイン木村硝子店のクランプルオールドがニューヨーク近代美術館にパーマネントコレクションとなる
1987年現チーフデザイナー三枝静代入社
1994年木勝シリーズ発表、その後ABCカーペット、MOS、ニューヨーク高島屋ほか、ニューヨークのトレンディーなセレクトショップで販売
1996年代表取締役就任
現在はチーフデザイナー、息子、と私、それぞれが好きなモノを作り続けて楽しんでいます。
http://www.kimuraglass.co.jp