Qorretcolorage - コレカラージュ

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OTONA LOUNGE

三好大輔(ALPS PICTURES 代表)
森下征治(TANGE FILMS 代表)

Text : Masami Watanabe
Photo : Kumiko Suzuki

February 13th 2018

かっこ良くてチャーミングな大人たちの現在、過去、未来…、その生き様や考え方を垣間見ることができ、Qorretcolorageウェブの読者の皆様にもっと楽しい「今」、さらにポジティブな「明日」を感じて頂く対談企画です。少しの間ご無沙汰をしておりましたが、再びここから再開です。

OTONA LOUNGEは毎回のゲストが次の回にはお友達を招き、ホストになるリレー形式で展開していきます。今回は、前回のゲスト、TANGE FILMSの森下征治さんが映像作家の三好大輔さん(ALPS PICTURES)をお迎えしてお届けします。三好さんは、かつてはメジャーアーティストのミュージックビデオやCM制作を手がける売れっ子映像ディレクターでした。忙しくご活躍するも、もっと自分の中から湧きあがる思いを映像にしたいということで現在はライフワークとなっている8ミリの映画作りを中心にその活動が注目されているアーティストです。

森下さん(以下、森下):今回、僕は三好さんの話を聞くことを熱望してこの対談をお願いしました。前回のTakramの櫻井くんとの対談の後に、誰に話を聞こうかなと思ったところ、僕の中である条件を挙げて、それを満たしている人を考えてみたら、「あ!三好さんだ」って思ったんです。

三好さん(以下、三好):ありがとうございます(笑)。

森下:自分と近い内容の仕事をしている人。そして、東京から距離をおいて仕事をしている人。東京ではないところに拠点を持っている人ということで考えてみたんですよ。

三好:確かに僕は東京からかなり距離があるところに住んでいますね(笑)。

森下:実は僕もこれから生活の拠点を田舎に移す予定で、その辺りの話にとても興味がありました。前回の対談の時は、東京を離れるということがまだまだ具体的でもなくて、現実味がなかったんだけど、今の僕は東京から少し距離を置こうと考えています。

三好:移住するんだ?

森下:はい。実は茨城県の笠間に拠点を移すことにしました。それで、三好さんの仕事の話はもちろんなんですけど、そういう東京じゃない暮らしの側面についても伺いたくて楽しみにして来ました。

三好:僕はちょうど6年前に東京から安曇野に引越しをして今年で丸6年。だから、当時小学校6年生だった長男は今では高校三年生になり、当時小学校3年生だった次男は中学3年生になり、小学校1年生だった三男は中学1年生になり、一番年下で2歳だった娘は小学校3年生になりました。

森下:三好家はお子さんが4人でしたね。もうそんなに大きくなったんですか。よく考えたら、小学校6年生で転校っていうのもすごいですよね?

三好:そうだよね。長男はあとちょっと東京にいたら元々過ごした小学校を卒業できたのに、それを待たずに引越しを決めちゃいましたからね。引越しを決めた当初は、妻は一番下の娘だけを連れて移住しようと言っていましたが、僕の中ではそれはNOで、子供が小さいうちは家族は揃って生活をした方がいいという考えだったので、結果的には家族全員で移住したわけですが、そのお陰で子供全員が子育てに一番大切な時期を安曇野で暮らすことができていると思います。

森下:6年ってすごい。特に、その時期の6年は濃そうだな。

三好:その時期の6年ってすごいよね。実際にすごかったですよ。大人である僕自身はどこまで成長できたかわからないけど、子供の6年はものすごく違う。これはかけがえのない時間。東京で生活する選択肢もあったけど、僕の場合は移住を決めちゃって、安曇野に拠点を移したことで、子供達全員に良い変化があったように思います。田舎特有の開放感と綺麗な空気の中で自然と共に暮らすって、やっぱり何にも代えがたいし、ありがたい。良い時間を過ごせていると実感がありますね。

森下:そう言えるっていいですね。僕は数年前から移住は考え始めていて、会うたびに三好さんにも聞いていましたよね(笑)。実際に笠間に移住しようと決めたのは今年の4月なんですけど、やっぱり静かで落ち着いた暮らしがしたいし、環境のいいところで子育てをしたいという気持ちがずっとありました。

三好:そうだよね、毎年アニメーションの授業で大学に来る度に、いつも移住の話をしていたよね(笑)。ついに決めたんだ?

森下:具体的なことを決めたのは今年になってからですが、ついに決めました(笑)。僕たち夫婦の生活の中で、”子育て”がやっぱり一番大きい目的でもあり問題だったので、もうこれ以上は都会にはいられないかなと思ってしまったんですよね。まぁ、親の勝手な子育て方法なのかもしれないですけどね。

Qorretcolorage(以下、Q):そもそも、お二人の出会いは?

森下:三好さんとお会いしたのはもう13〜14年前になりますかね。僕がまだ藝大で助手をしていた頃のことで、三好さんは当時、講師で大学にいらっしゃっていました。僕はまだ助手という立場だったので映像の仕事はしていませんでした。その頃の三好さんはスペースシャワーTVという会社でCMやDVDの制作の仕事をされていて、確かディレクターをされていましたよね?

三好:当時の僕はスペースシャワーTVという音楽チャンネルからCM制作の会社に移ったところで、森下さんに出会った頃の大学の講義で僕はミュージックビデオの制作の話をしたんだったね。全てPCで作ったモーショングラフィックスのミュージックビデオの話で、それを全部話し終わったところで、「で、それでいくらもらえるの?(いくらの仕事なの?)」という質問に僕が「うん十万円」と答えたら、聞いていたみんなが愕然としちゃって、森下さんも多分それでこの世界はないなと思ったのだろうけど(笑)。

森下:僕なんてまだ仕事としての作品づくりなどを全然できていなかったから、かっこいいなと三好さんに憧れていました。その後、僕も少しずつ自分で仕事として映像に関わるようになるのですが、お会いしてからしばらくして、三好さんが再び藝大の講師として大学に来られた時に、その時にやられているお仕事が昔とは全く方向性なども変わって、素晴らしいものですごく感銘を受けました。その時の僕はお陰様で仕事は沢山やらせていただけるようになっていましたが、自分が思っていることと、実際に作っているものにギャップがあって、その開きがどんどん大きくなっていた時期。僕がそんなジレンマの中で仕事をしている時だったから、三好さんのやっていることが本当にすごいと思っちゃって、それからずっと三好さんのやっていることが気になっているんです。

森下:この作品を作るきっかけ、このスタイルは三好さんの中でどうやって生まれたんですか?
どうしてこういう映像を取ろうと思い立ったのか?元々、そういう思いが自分の中にあったのか?どうなのか、それが知りたいと思っていました。

三好:きっとね、それは森下さんと同じ思いなのかな。自分のやっている仕事と自分の思いとのズレが生じ始めて、それに気がつき、それが大きくなっていった。そんな時に友達の結婚式用のビデオ制作を頼まれたんですよ。生まれてから今までの自分を振り返る・・・そこに音楽やナレーションをつける、という感じ。そしたらね、その友達がミュージシャンなんですけど、写真と一緒にこんなのもあるから使えたら使って欲しいと8ミリフィルムを渡されたんです。僕自身、ミュージックビデオなどを作る時に、わりと8ミリフィルムが好きで使っていたので、「あ、やっぱりいいな8ミリ」と思ってそれを映写機で再生してみた。そのフィルムの中には友達がヨチヨチ歩きでやっと歩けるようになるくらいの姿が映っていた。そういうのって、だいたいお父さんが撮影をしているんですよね。もうただひたすら、その子を追って、その子だけを映している。構図も背景も、うまく撮ろうなんていうテクニックも、そんなことは全然関係なくて、ただひたすらにその子を撮る。その父親の愛情が滲み出てくる目差し、愛情溢れる映像に僕は打ちのめされちゃったんですよ。で、自分のやっている仕事の薄っぺらさを感じてしまった。こんな素晴らしい8ミリがあるのに、自分は何をしているのだろうかと。その時にね、こういう8ミリを観られる場所ってあるのかなと調べたことがあるんですよ。パブリックスペースで8ミリを上映するところがあるのか。でもね、そんな場所は全然なかった。こんなに素晴らしい8ミリが、全て個人で完結しちゃっているんだということを知り、世の中で観ようと思っても観る環境がないんだということを知って勿体無いなぁと思った。それで、こんな魅力的な8ミリを観られる空間を作りたい、8ミリを個人レベルでなく観られる仕組みをちゃんと作りたいなと思ったんです。それで、そういうことを考えていた時に、墨田区のイメージアップや支援になるような地域的な活動に助成金を出しますよという企業の情報を入手してエントリーしてみたんです。僕の仕事って、それまでは全て受注でスタートしていますよね?必ず誰かから依頼を受けて、その要望やお題に対して形を作っていくスタイル。そういうやり方ばかりを繰り返してきたので、自分の中から湧き出てくることを形にするということはこの時が初めてだった。で、今まで一度もやったことがないけれど、企画書を作って出してみたわけです。それが今やっている仕事はじめるきっかけでしたね。それで、担当者と何度もやりとりをして、「これって本当に何かの役に立つのですか?」なんて聞かれたりしたんだけれど、「いや、僕も全く初めてのことでわからないけど、必ず地元の人が共感できるものが作れると思います」とか「地域にとって大切なものが生まれると思います」とかと話して、説得しました(笑)。本当に手探りでスタートしたプロジェクトでした。それまでの僕は墨田には全く縁がなかったのだけれど、これをきっかけに墨田に足繁く通い、人づてに色々な人に会い、8ミリをお預かりし、それをデジタル化して一つの作品を作るということをやってみた。結果的に、それが現在の自分の映像制作のスタイルの元になっていて、それが2010年のことになります。
最近は「地域映画」と言っています。
8ミリの映像をただただ並べてどうですか?と言っても、なかなか人々の心に響くものにはなりにくいので、「映画」に落とし込んで行って、30分なり、1時間なりにしていく。8ミリフィルムの多くはサイレントの映像なので、そこに映されたものを伝える時に、インタビューや音楽を挿入する。それらを編集して映画に仕立て上げる。8ミリそのものに新たな価値を加えることで初めて人に伝えることができるのかなって。
墨田でつくった「8ミリの記憶」という作品が初めての作品ですが、それはとても評判がよかったし、みんなが喜んでくれたんですよね。

三好:このことをきっかけにどんどん芋づる式に、次の作品に繋がっていくんですけれど、次は藝大の先生から、進行中の足立区のプロジェクトの中で三好さんの作品を作りませんか?と声をかけてもらった。その時も区民からたくさんの映像を預かるわけなんですけど、その際にメロディーも一緒に募集した。足立区らしいメロディーってなんだろう?ということで色々募集をかけた。そこに集まったメロディーを藝大の音楽環境創造科の生徒さんたちに編曲をしてもらって、一流の演奏家による演奏をスタジオで録音して、作品のBGMにした。映像だけではなく、音楽を通じても市民参加型という作り方をしてみたんです。

三好:そういうことをやっていくと、色々とこの活動に賛同してくれる先生方も出てきて、後押しをしてくれて。で、そこから丸の内の三菱地所の映像作りにも繋がっていきました。
丸の内という三菱地所が管理している土地の歴史を振り返ろう・・・という企画。それでフィルムを探し始めたんだけれど全然見つからなかった。なんでかというと、丸の内という場所は住人がわずかに数人しかいない土地なんですよね。住民票を持っている人が少なすぎるの(笑)。だからホームムービーというものは全然出てこなかったんだけれど、困って相談した相手が東京国立近代美術館フィルムセンターだった。そこから大正時代まで遡った16ミリとかの貴重な映像を預かることができて、それを編集して映画を作りました。それまでの僕の8ミリの映画ともまた少し違う作品が完成し、それがまた三菱地所に働く社長、会長さんを始めとした従業員の皆様にも喜んでもらえたんですね。自分たちの勤めている丸の内という街の歴史の深さを映像を通して知っていただくことができたし、僕自身も丸の内という東京の中心を担う街の歴史をこういった形で掘り下げて知ることができて、とても貴重な経験ができたと思っています。

森下:東北でも作品を作っていましたよね?

三好:大船渡と浪江町で作品をつくりました。藝大で東北復興のプロジェクトが立ち上がるからという話がきて・・・。大船渡では元々はお米屋さんの蔵にフィルムが保管されていたんだけれど、ほとんどが津波で飲まれてしまって、かろうじてヘドロまみれになりながらも蔵に残ったフィルムを東京からのボランティアの人たちと全て洗浄して、デジタル化しました。その作業をしたのがちょうどこの部屋(このインタビューをした藝大のスタジオ)です。そうやって一度は諦めたかけたことをみんなの力で復活させてフィルムを観られるようにしたんです。修復したそのヘドロまみれのフィルムには、昭和40年代〜50年代の大船渡の風景が映っていたわけ。ごく普通に以前はそこに当たり前にあった日常生活が刻まれていたんです。

森下:この映像の隅にある汚れはヘドロ?

三好:そう。やっぱりね、洗浄修復といっても限界がある。映写機に通すことができるギリギリまでは洗ったけれど、洗い過ぎると映像がどうしても流れていってしまう。だからどうしても汚れや傷が残るんです。この映像はそうやって映写機を通したものを再撮して作っているんだけれども、フィルムを映写機に通した時にはヘドロの汚れがカビのように取れない箇所はノイズになったり、一部全く何も見えない部分があったり・・・。でもね、動きの合間にハッとするほどクリアな形で残っていた部分もあったりするんです。写真の一枚とは違って連続して動いているので、当時の街の様子、お祭りの様子などが蘇ってくるんですね。それを見た時に失われたものの大きさを改めて知ることになったんです。
震災の後に、よく写真の洗浄のニュースは取り上げられていたんですよね。流されたアルバムを拾ってきて、洗浄してスキャンして、写真はそういう形である程度収集されて復元されているのだと思うんですよ。でもね、8ミリというのは、フィルムそのものを今の人たちはほとんど見たことがないわけでしょう?だから、たとえそこに落ちていたとしても気づかない。僕が知るところではフィルムを洗浄して復元するという活動はほとんど行われていなくて、NPOの映画保存協会というところが唯一、災害対策部というのを設けてフィルムやビデオなどを修復する活動を行なっていたんですよね。

森下:なるほど、そんな活動でしたか。

森下:映画のプロジェクトは安曇野でもやっていませんでした?

三好:そうね。全国各地で映画を作り、上映会も行なっていた中で、あるとき安曇野に住んでいるのに安曇野では何もしていないことに気がつくんです(笑)。そしたら、そのタイミングで友達が安曇野市の10周年の市民企画を募集しているよと教えてくれた。それですぐに応募しました。そしたら担当者がとっても興味を持ってくれて、何度も何度も話を聞きにきてくれてね。安曇野市の市政10周年の企画の一つとして採用させてもらいますと言ってくれた。それで、ようやく自分の住んでいる町の映画を撮る機会を得たんですね。それで、その活動地元の新聞や市報やテレビなんかでとりあげてもらえるようになって。地元の人たちからは「三好さんってこういうお仕事をしていたんですね」なんて声をかけられるようになった(笑)。それまでは僕が何やってるかわからなかったからね、やっと理解されたっていう(笑)。

森下:あはは。

三好:安曇野に関しては、今まで以上に多くの市民に参加してもらいたくって、小学校の合唱部、中学校の合唱部、市民合唱団、それから、市民の音楽サークルでバイオリンを弾いている人とかピアノの先生とか、おばあちゃんのオカリナのデュオとかを集めて音を奏でてもらって、それをBGMにしたり、画家さんに題字を描いてもらったりしたんですよ。映画づくりに参加するとなったら、みんなのモチベーションも上がるし、みんながキラキラしていた。それが印象的だったし、みんながワクワク喜んで参加してくれていることが僕自身にとっても嬉しいことだった。
市民の皆さんを巻き込んで本当に良かったと思ったし、少し前の当たり前の生活風景を次の世代に伝えていきたいとも強く思った。おじいちゃんおばあちゃんだけでなく、これからの世代の人たちにちゃんと伝えたかったからね。安曇野ではそのあと何十回となく公民館や高齢者の施設などで上映会をやってもらっています。その中で、僕も地元の小学校で授業する機会もいただいたりしたんですよ。

森下:わ、それはすごいですね。

三好:ようやく8ミリが身近な生きたフィルムとして地域に還元されるという仕組みが実現しつつある感じがしたよね。

森下:今、ずっと話を伺っていて、本当に三好さんは結婚式のビデオ制作をきっかけに作品作りとの向き合い方が大きく変わったわけですね。驚きました。僕も仕事はアニメーション制作ですけど、やっぱりよく結婚式のビデオとかは頼まれるもんなぁ(笑)。

三好:そのきっかけとなった友人の結婚式が2006年で、その時もちろん彼女もとても喜んでくれたんだけれど、実はね、僕は密かにいつかこのフィルムを使って彼女のミュージックビデオを作りたいと思っていたんです。その思いをずっと寝かしておいたら、ちょうどこの間彼女がデビュー20周年を迎えて、そのベストアルバムの中のリード曲のミュージックビデオにあの8ミリを使って作って欲しいという依頼があった。それでね、小谷美紗子さんの「手紙」という曲のビデオを作りました。

森下:それもすごいですね。いいなぁ。三好さんはやっぱり着々と自分のやりたいことを実現していますね。すごいな。

三好:ちょっとずつですけどね。自分の思いは形になってきているなという実感はありますね。本当にいい流れがそこにあった感じ。

森下:自分が感動したものが、その延長でそのまま作品になっていくって、なんだかとっても羨ましいし、すごいことですよね。僕なんか頭でっかちなのか、せっかちなのか、どうしても自分自身で物語を作り上げてしまうから、もしかしたらそこにジレンマを感じているのかもしれないんですけどね。言ってみれば2006年当時なんて映像はyoutubeなどで簡単に世界の裏側まで届く時代になって、いわゆるミュージックビデオの映像を作るって夢があり、みんながやり始めるという流れがすごかったじゃないですか。そんな時期に、全く逆のただただ隣にいる人に伝える、隣にいる人を感動させる・・・というところに注目した三好さんの発想がすごいし、なんだか僕からするととても不思議な気がします。やっぱりそういうところが僕にはなくて、三好さんなんだな。

三好:でも、森下さんだってアニメーションを作り始めることになったきっかけとなる、心を震わされた何かがあったわけだよね?

森下:ジブリとかの影響はありました。でも、三好さんの場合、何もないところからこういう風にしたい!という思いを実現しているというか、最初の墨田のプロジェクトでも誰もやったことがないこと、見たことがないことで絶対にみんなを感動させられると思ったわけでしょう。自分の思いをただただ信じて、それを実行したら、そこから思っても見なかった展開があり、足立区から声がかかるとか。丸の内のお話がきた・・・とか。すごいですよ。僕たちはまず納品先というゴールを設定して、それに向けて作品を作り上げていくけど、三好さんの場合は何もないところから作品を作り上げていくから、その時で違う構成になって行ったり、異なる作り方になっていくわけだから。その時の状況と流れによって作品が変化していくでしょう。逆算的な考え方ではなくて、そこにあるものを一つ一つ丁寧に積み重ねていく作り方ですからね。とにかくすごいなって。
僕の今やっているやり方とは全然違うもの。なんというか、もっといい言葉があればいいんだけど、とにかくすごいとしか出てこない(笑)。
なんか一個一個自分がやってきたことが形になり、作品になって残っていくというのが本当に素晴らしい。それが丁寧に生きるということなんだと思います、きっと。

三好:丁寧には生きたいとは思っています。実は僕ね、昔はヘビースモーカーだったんですよ。

森下:え!!そうなんですか!!!!見えない!と言うか、知らなかった!!(笑)

三好:僕が尊敬するカメラマンだったり、憧れを持っていた人たちはみんなタバコを吸っていなかったし、みんな走っていた。その頃の僕といえば、タバコ吸いながら仕事して、深夜に焼肉弁当を食べて、タクシーで帰る夜型人間。朝は遅く起きて・・・みたいなね。でね、憧れの人たちはみんな喫煙はしないし朝型でした。すごく憧れたけど、みんな雲の上の人たちで(笑)。そんな時に僕がタバコをやめる出来事があり、それですぐに禁煙した。ほどなくして走るきっかけを作る人に出会ったんです。そうやって一つ一つ自分でよくないと感じていた習慣を辞めて、改めていった。少しずつでも憧れの人たちに近づけるように丁寧に自分と向き合っていった。そうして行ったら、だんだんとね、仕事の仕方も変化しました。だから禁煙も、走ることもそれから現在までずっと続いてるんです。

森下:それもすごい話ですね。そんなに簡単に変われることではない気がします。

三好:安曇野への引越しも、当初は都内近郊で自然のある場所に引越したいとかなり探していた。でも残念ながらそのご縁がなかった。ちょうど長男が5年生の時に探していて全然見つからなかった。そうこうしていたら6年生になっちゃうから、だったら小学校を卒業するタイミングで引越しができるように改めて探そうか、なんて言っていたら東北の震災があった。その時に安曇野という選択肢が目の前に出てきたんです。何でかっていうと、震災の前の年の夏休みに安曇野に家族旅行に行っていたんですよ。その時に、妻も僕もこんなところに住めたらいいね〜って、ただ漠然といいところだなと思った。それでね、そうだ!安曇野だって!
今思うとね、実はその家族旅行以来、僕は安曇野が好きになって何度もカメラを片手に写真や映像を撮りに訪れていたんですよ。で、写真撮ったり、地元の方とも親交ができていたので、その方を訪ねたりね、そんなことをしていたんです。

森下:ヘぇ〜、そんなことがあったんですね。

三好:それでね、安曇野に行ってみて、ここに住んだらどんな感じかなと思っていくつかの物件を見てみたんです。まぁ、住まないかもしれないけど、でも2〜3年くらいなら住んでもいいのかもな、くらいの気持ちで。そしたらね、三好家が住むのにいい大きさの家に出会ってしまった。それで、すぐに申し込んで。そのままトントンと5月には引越をしていました。

森下:つまり思い始めてからどのくらいで引越をしたことになるんですか?

三好:うーん、2ヶ月もないくらい。

森下:それもすごい!すごいとしか言葉が見つかりません(笑)。

三好:東京以外で子育てに適した自然環境の良いところ、というのが夫婦の共通認識だったので、引越はすぐに決めましたね。

森下:僕も移住は子供がきっかけなんですよ。一番上の長女の時はあまり感じなかったんですが、長男が生まれた頃からマンション暮らしには疑問を感じるようになって。だってね、マンションだと走れないんですよ、家の中で。走ると近所迷惑になるから怒らなければならない。でも、子供に「どうして?」と言われると、ちゃんと理由を説明できない自分がいた。
僕がちゃんと説明できればよかったんでしょうけれど、僕にはどうしてもその明確な理由が見つけられなかった。僕の中では子供が走る理由の方がずっと意味があったので。それで、もうここにはいられないなと考え始めました。あとは自分と自分の作品のズレみたいなものを感じていたので、東京から少し距離を置きたくなったというか。もちろん、迷いがなかったわけではなかったし、えいやって決めたところもあったんだけど、いざ笠間に行って見たら、毎日発見しかなくて。例えば、芝刈り機なんて使ったことがなかったんだけど、この間やって見たんですよ。エンジンかけて、ガガガッとやって見たら、こんな感じなんだぁって(笑)。都会にいると、なんか花は綺麗で大切なものっていう認識になるんだけど田舎に行くと野花がそこら中に咲いているから、花さえも時には切らなきゃいけないっていうね(笑)。でも、その感覚ってやって見ないとわからないってすごく感じて。春には筍を掘ったんです。でも全然掘れなくて。1本掘るのに何回か休憩しないと掘れなくて(笑)。あれ、結構難しいんですよね。そういうことも全て体験してわかったことであって、都会にいたら一生気づけなかったかもしれない。

三好:うん、すごくよくわかります(笑)。

森下:僕は元々岡山県の出身で19歳で東京に出てきて、今42歳だからもう半分以上を都会で過ごしているから、すっかり田舎の感覚を忘れちゃってます。完全に東京での自分が出来上がってしまっていたんだけど、そういう中でふと三好さんの話を聞いたり、やっていることをみて、ハッとしたんです。昔は美術大学に行きたくて東京に出てきて、仕事のために東京にいたという理由があったんだけれど、ここにきて初めて自分が本当にやりたいことが湧いてきていて、もう東京じゃないかなと。都会を離れることが実際に今感じている自分のギャップを埋めてくれるかはやってみないとわからないのだけれど、少しでもそうなったらいいなという思いでいます。三好さんは安曇野に行く前から現在の8ミリの作品を作り始めていますが、安曇野に行ってから自分の作品作りに対して何か変わったこと、わかったことはありますか?

三好:うーん、安曇野に引越してからはより一層一つ一つの仕事に丁寧に取り組むようになってはいるかな。でも、仕事にかける時間は随分と短くなったと思います。編集での判断が早くなって悩んでいる時間が短くなった。時間を決めてやらないと、畑の草刈りの時間がとれないですから(笑)。

森下:栃木にドライブイン茂木というところがあるんですけどね、そこに行ったらすごかったんです。おしゃれで、かっこいいカフェがあったりしてね。地元では人気のスポット。でも、そこの経営者は田植えの時期は営業をしないって言うんですよ。田植えの時期はみんなで田植えすることが最優先だからって。それこそ地域にちゃんと寄り添っているし、三好さんの丁寧な仕事ぶりと重なるなと思ったんですね。

三好:ありがとうございます。田植えといえば、僕もね、田植えの時期に安曇野のローカル電車に乗ってね、車窓からの景色を眺めていたら稲が風にさわさわさわ〜って揺らいでいて、太陽の光で稲の合間の水面がきらきらしていた。それをみた時にね、あ!ジブリだっ!って思った。アニメーションで見ている情景がこんなに目の前に本当にあるんだって、その時に改めて再認識したんだよね。ジブリってすごいなって本気で思いましたよ(笑)

森下:ジブリってやっぱりすごいですよね(笑)。

三好:本当にそう。あの観察力、描写力はすごいね。田舎暮らしをしていると、空の変化とか、雲や光の微妙な違いとか、草花の変化とか自然がうつろう瞬間に遭遇する機会が圧倒的に多いんです。そういう環境にいるからできる物作りがあるのかもしれない。都会にいたら、あの自然が見せる瞬間には気づきにくいからね。

森下:なんか三好さんの作品を見ていると昔の人の当たり前の生活とかが丁寧に描かれていて、ジブリ制作の高畑勲さんの描いた「かぐや姫」のあの頃の生活風景みたいなものとかぶるんですよ。どちらも表面的にわかりやすい物語の派手さとか面白さとかではなく、実直に確実にそこにいる人だとか、ただただその時の人々の生活風景だったりを伝えたいみたいな。本質をついていて深いなって思います。だって、この対談が始まる前に聞いた三好さんの今の大分のプロジェクトも丁寧過ぎて気が遠くなるような時間をかけて取り組んでいるわけでしょう。完成するのは2018年10月だなんて!

三好:そのプロジェクトの話で言えば、今も大分の竹田市に毎月通ってたくさんのフィルムを集めているんだけれども、そこには懐かしい風景だったり、きらきらしている日常が詰まっているんだよね。実際にはどこかの知らないおじさんの娘さんの映像だったり、知らない誰かのある日のことだったりするんだけれども、そこからは誰もが感じたことのある思いが伝わってくる。それこそが8ミリの力であり、魅力なんじゃないかなと思うんです。今、どんなに有名になっている人だって、昔は普通の家庭の普通の子供だった時代があったわけでしょう。みんなが共感できる情景や感情がそこにはある。8ミリには家族の愛情が詰まっているんです。親の目差し、空気が感じられる。親子という家族のミニマムの関係性がそこにはあって、だから世代を問わず見た人がどこかに共感できる愛情が8ミリには刻まれてると思うんです。何かを思い出したり、何かに改めて気がついたりね。当時の空気に戻れるきっかけ。

森下:まさにそうですね。どこか懐かしい気持ちになるし、涙が出るときもある。なんであんなにジーンとするんですかね。不思議な力がありますよね、8ミリ映画には。

三好:うん、僕もそういう思いでこの活動を始めたわけだけど、あれほど心を動かす映像なのにそれを管理したり、保管していく組織も土台もないんですよ。それも不思議だよね。だから僕は地域映画という形でこれからも広めて行きたいですよね。それぞれの土地の文化として地域映画は世界中に通用すると思っているし、様々な世代や人種がそれぞれの生活や文化を理解して繋がっていけるように思う。そういう中から良い人間関係が育まれていってほしいですね。安曇野でつくった地域映画は一本目の評判がよかったので、今度2本目をつくることになりました。今、音楽の録音やインタビューを進めているところです。そうやって地域の中で継続的につくり続けられるのもいいですね。

森下:ぜひ笠間とかもやってください。観てみたいな。

三好:きっと何処の土地でもやろうと思えばできるんだよね。自治体と、地元住民とを巻き込んで作れるなら色々な土地を舞台にして作品を作っていきたいですね。きちんと地域と一緒に作り上げる。それが僕のライフワークなんじゃないかと思っています。

森下:では、生涯現役ですね。死ぬまで撮り続けていくのかな(笑)。

三好:そうだね、本当に死ぬまでやっているかもしれない(笑)。その土地によって特徴や性格、スケールも違うから、まだまだ可能性があるし、少しでも多くの人や生活風景を残していきたいと思う。昔、あるミュージシャンにインタビューをした時に「私はやりたいことをやっているんじゃないの、やるべきことをやっているの」と言われてね。その時からずっとその言葉が胸に残っていた。当時の僕はまだ映像の仕事を始めたばかりだったから、その言葉の意味をきちんとわかっていなかった。アーティストや物作りをする人はやりたいことをやっているんじゃないかと思っていたから、やるべきことをやっていると言われて訳もわからない衝撃だけが残った。でもね、最近になって少しだけその意味が理解できるようになった気もしてね。
作品の制作の中でやるべきことかを問うようにして、そうだと思える企画を提案しています。「これでいいや」ではなく、「これがいい」と思える内容でね。これからも僕は自分のやるべきことを素直に丁寧にやって歳を重ねられたらいいなと思っています。

森下:三好さんの自分自身の思いを形にしている、そのことで周りを豊かにしているという流れにとても共感し、自分もそうしたいと思うようになって、今年は様々な決断をしました。ただがむしゃらに働いてきて、一周回ってはたと気がついた・・・そんな感じで。だから今日は
三好さんの話を改めてじっくりと聞けてよかったです。ありがとうございました。今後も三好さんの活動からは目が離せませんね。次の方の対談も楽しみにしています。

三好 大輔
Daisuke Miyoshi
アルプスピクチャーズ代表・映像作家
CMやミュージックビデオ、伝統工芸や伝統文化の映像記録など、ジャンルの垣根を越えた映像制作を行う。
近年は、全国各地で市井の人々が記録した8ミリホームムービーを掘り起こし、過去の記憶を後世に残す
ために、市民と協働する地域映画づくりに奔走している。2015年に株式会社アルプスピクチャーズ設立。
東京藝術大学美術学部デザイン科講師。長野県安曇野市在住、4児の父。
http://www.alps-pictures.jp
森下 征治
Masaji Morishita
TANGE FILMS 代表
2004年4月 東京藝術大学教育研究助手として勤務
2004年4月 フリーランスのアニメーション作家として活動
2006年9月 TANGE FILMSの屋号にてアニメーション制作事業を開始
2007年4月 東京藝術大学非常勤講師として勤務
2009年5月 株式会社TANGE FILMS 設立
2016年3月 現在