コレクション、この奇妙な情熱
あなたにはコレクション(蒐集)をしている物があるだろうか。
今はない方にも、子供時代に熱中したコレクションはあるのではないか。
今回は、先日、エジプトのミイラを最新法科学の手法で調査し直した ‘Ancient Lives New Discoveries’ 「古代の生死と新発見」展(11月30日まで開催)を見学した、ロンドンの大英博物館の話を。
大英博物館は個人の博物学的コレクションを元に成立した博物館なのだ。
わたしの人生の初コレクションは、舶来の紙ナプキンだった。
すみれの花が散らしてある円形のもの、ピンクの薔薇の縁取りのもの、苺、トリコロールのエッフェル塔…わたしはそれらを丁寧にたたみ、かぎ針編みのバッグにしまい、時々広げては眺め、柄ゆきと紙製品ゆえの儚さにほれぼれしていた。
舶来の紙ナプキンをどこで手に入れたのかは全く覚えていないが、昭和40年代のこと、入手ルートも好みのデザインもほとんどなく、悩ましかったのはよく覚えている。そういうわけで人生初のコレクションはなかなか増えず、そのうち、かぎ針編みの小さなバックはどこかに行ってしまった。
が、紙のナプキンを羽衣のように扱い、広げて眺めて感じた「わたしは美しい物を所有している!」という胸が踊る気持ちは今も忘れない。
次に集めたのは切手だ。切手コレクションは当時の小学校低学年のコレクション登竜門だった。
一時期船医として世界中を旅していた大叔父や、駐在生活をしていた叔父叔母の手紙小包からはがしたもの、近所の北欧人家庭でもらったものなどを、絹で装丁した切手帳に納めたのが始まりだった。それだけではページはスカスカだったので、父のコレクションから記念切手を分けてもらい、母が季節の便りを出すのに使った残りなども収納した。
切手が薄紙の中に等間隔で整列しているのは、さながら美術館の陳列のようで、世界の美しい抽出物だけを所有しているような気がして夢見心地になった。わたしの美術館好きはこのころに養われたのかもしれない。
さらに欲が出、数を揃えたくなり、使用済み切手の袋詰めを「古切手屋」で求めたりもした。それら好みでもないデザインの切手を数合わせで切手帳に並べるのは、コレクションの価値を損ねるような疾しい気持ちがした。しかし、とにかく数を増やしたいという欲望には勝てなかったのだ。
その次はラインストーンのブローチ。
サンリオ製のドールハウスサイズの家具、食器、雑貨類。
その年頃になると、鑑賞した映画や芝居やバレエなどのパンフレットを大切にコレクションしてもいた。
パンフレットは、わたしと作品との繋がりの印、わたしの感動が世界にたったひとつの感動であるという凱旋門、わたしがわたしである理由、わたしの世界を手に取れる形に変えたものだった。思春期の人間としては粗末にできるわけがなかろう。
認知症の患者には「収集症」というのがあり、それは自分の身の回りの物を一切捨てられず、すべて溜め込む症状として現れるらしい。
認知症によってどんどん失われていく「自分」の代わりに「物」を溜め込み、蓄積していく「物」を流出する「自分」の代償にしているような気がして切ない。
‘System of Collecting’, Jean Baudrillard
John Elsner 他編の ‘The Cultures of Collecting‘ の中に、ジャン・ボードリヤールの ‘System of Collecting‘ という著述が掲載されている。
ボードリヤールは子供時代の無邪気なコレクションをこのように説明する。
「子供にとってのコレクションは、パワーを行使できる最も初歩的な方法である。すなわち、並べる、グループ分けする、取り扱うなどによって世界を支配下に置くパワーだ」(ジャン・ボードリヤール『コレクションのシステム』)
彼は、誰にでもある蒐集癖は7歳くらいから始まり12歳くらいになると消えて行くもので、思春期前に独特の現象であり、かつ中年を過ぎて再び熱中する人もいるため、性的な衝動が活発になる前後に関連性があると述べている。
わたしは子供の社会化とも関係があるのではないかと思う。逆に言うと、12歳までの時期に完全に社会化しなかった一部の人は、思春期を過ぎてからも極端なコレクションにこだわり、自分だけの意味世界を構築する「オタク」になる可能性がある…とも言えよう。まあこれはシロウトの思いつき、放言。コレクションにもオタクにも偏見はないので悪しからず。
そして、現在。大人になったわたしにコレクション癖はない。
着倒れのわたしのクロゼットにかかっている服も靴もコレクションではない。なぜならボードリヤールが指摘するように、
「蒐集物とは、物が元々の機能を剥奪され、主体に関係づけられた物のことをいう」
からだ。
つまり、例えばロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に収められているアレクサン ダー・マックイーンの服は、服が元々の機能である「人間がまとう防護布、あるいは記号」としての機能を剥奪され、ヴィクトリア&アルバート博物館という主体の「服飾デザインの金字塔」を構成するためのピースとして機能しているためにコレクションだ(来年2015年3月から7月まで、マックイーンのドレス・コレクション ‘Savage Beauty’ が開催予定)
一方で、わたしが日常的に着て、油のシミをつけたりしているアレクサンダー・マックイーンの服は、クロゼットに何枚あるとしてもコレクションではないのだ。
コレクション(蒐集)とは
もう少し詳しく見てみよう。
コレクションとは何か。
「実用的な物(例えば機械)には社会的な価値がある。逆に機能を剥奪され、特定の文脈に結びつかない純然たる物は主体的な価値を帯びる。と、それはコレクションされる宿命になる。その結果、物は『カーペット』であることを止め、『テーブル』であることを止め、『羅針盤』であることを止め、『こまごましたもの』であることを止め、『オブジェ』『ピース』に転ずるのだ」
「ひとたび物がその機能によって定義されることを止めると、物の存在意義は完全に主体側のものになる」
わたしの紙ナプキンや切手の例、ヴィクトリア&アルバート博物館のマックイーンの服のように、コレクションとは、物が本来備えている実用的な使い方をされずに、主体側(この場合はわたしや博物館)の都合によって、別の意味体系の中に組み込まれた状態であることを言う。こうして集められた物は別のシステムを形成する。このシステムこそが「コレクション」だ。
「こうして物はひとつのシステムをつくる。それを基礎として、主体は彼の世界を継ぎ合わせ、小宇宙を作り上げるのだ」
おお、わたしの紙ナプキンコレクションも、切手コレクションも、スケールの差は異次的だが博物館も、小宇宙なのだ。誰が宇宙を思うがままに操ってみたいと思わないだろうか。そりゃワクワクして当然。
また、別の要素もある。
「コレクションを単なる物の蓄積に勝るものにしているのは、コレクションの持つ文化的複雑さだけでなく、コレクションは永久に不完全であり、常に何かが欠けている状態にあるということだ」
コレクションは決して完結などしないのである。これで完成、このラストピースを加えて終わり、はありえない。次から次へと集めても集めても決して完成することのない「完全な世界」「完全な宇宙」を目指すこと、それがコレクションなのである。
この点に限っては、わたしのクロゼットの中身もちょっとだけコレクション寄りかもしれない。
女性のクロゼットには常に着るものがないのがデフォなんですよね…
大英博物館の成立
なぜ、くだくだとコレクションの話をしているかというと、世界最大の博物館のひとつである大英博物館は、アイルランド出身の医師で博物学者であったハンス・スローン卿の「驚異の部屋」コレクションを元にして18世紀に成立したからだ。
自分の死後、7万点を超える文物が分散してしまうのを恐れた彼は、すべてを遺贈した。
彼のコレクションの内容は、書籍、写本、植物標本を含む博物史的標本、デューラーのプリントや素画、アフリカ、ギリシャやローマの地中海世界、中近東、アメリカの古美術品。
「十八世紀以降、以前にも増して活発になった探検航海や世界一周旅行によって、非ヨーロッパ圏の文物はくめど尽きせぬごとく、ヨーロッパにもたらされ続けたのである。こうした状況を後押ししたのが、博物学者といわれる人たちである。彼らは珍奇物を続々蒐集してゆく点においては、ヴァンダーカンマー(驚異の部屋)の精神を引き継ぐ存在だった。
ただしその関心は主に、ナトゥラリアとエクソティカ、つまり自然科学系、民俗学系の対象に向けられていた」(小宮正史『愉悦の蒐集 ヴァンダーカンマー』)
スローン卿もこうした博物学者のひとりだった。
キリスト教世界で自然科学研究が発達した理由の一つは、自然についての知をくまなく探求することが、すなわち神の目的や英知を理解することにあったのを思い出そう。
この後も大英博物館のコレクションは増え続け、19世紀にはとうとう分館が成立する。
これがロンドン自然史博物館だ。ちなみに自然史博物館の基礎となったのは大部分がスローン卿のコレクションだった。
驚異の部屋、ヴァンダーカンマー
「驚異の部屋」は、ルネサンス期のイタリアに発生し、その後18世紀までにヨーロッパの隅々にまで広がった。
驚異の部屋に収蔵されたコレクションは、現代の分類上では、博物史に含まれるもの(フェイクもあり)すべてであり、地質学、民俗学、考古学、宗教あるいは歴史的な遺物、芸術品、アンティークなど。
つまり、珍しいもの、稀少なもの、貴重なもの、美しいもの、シュールなもの、風変わりなもの、グロテスクなもの、過剰なもの、竿の先で宙返りしてみせたような細工もの、その他、人があっと驚く奇妙奇天烈、人外魔境的なものなら何でもかんでもで構成された、想像するだけで空を飛べるような文物でいっぱいの部屋のことだ。
具体的にはワニなどの珍しい動物の剥製、鳥や魚の標本、角、牙、骨格、鉱物、貴金属、珊瑚や貝、植物標本、また人工的なもの、彫刻、絵画、ミイラ、人魚や竜のフェイクのミイラ、からくりなどのオートマタ、天球儀…
驚異の部屋は、ボードリヤールが指摘したコレクションする子供の楽しみ、集める、並べる、グループ分けする、取り扱う、の大人買いバージョンのようだ。 もちろん彼らはそれら莫大な文物を基礎として「小宇宙」「世界の雛形」を作り出そうと したのだ。
「コレクションの莫大さを誇示すべく、部屋から溢れんばかりのディスプレイに勤しむ。そもそも世界には無数の文物が存在しているのだから。世界の雛形であるヴァンダーカンマーにおいても、途方もない量の蒐集品を誇示しなければならない」
古今東西、森羅万象、種々雑多な文物を集めまくり、世界の成立の要素、神の秘密に迫ろうとする。こうして成立した驚異の部屋は「宇宙の秩序を可視化する」ひとつの世界、ひとつの小宇宙そのものだったのである。
驚異の部屋のオーナーには、小宇宙を欲しいままに操る支配者、創造者としてふるまう野望があったのだ。
大英博物館を訪れて、「教科書に載ってたものがそこにもあそこにも」とか「古今東西なんでもあり!」「こんなもの、よく運んできたな」「同じようなものがいったい何個あるの!」と感じるのはある意味当たり前なのだ。ここは世界の雛形なのだから。
ロゼッタストーンからチェスの駒、エジプトのミイラからイースター島のモアイ、ギリシャの壷からアステカのモザイク、アッシリアの城門から日本の埴輪まで、時間と空間を超えてわたしたちをワクワクさせる物が超ゴージャスなおもちゃ箱さながらにあふれている「驚異の部屋」
現代でこそ、怪しげなものや無価値なものは排除され、整理整頓され、分類化されてるが、価値を序列化せず並列し、価値判断やタクソノミーが入り込む以前の純粋な人間の愉しみと欲望にあふれた「驚異の部屋」の直系の子孫、それが大英博物館なのだ。
大英博物館は、紙ナプキンを世紀の宝物のように扱いながら世界の無限の美しさにうっとりし、驚き、感動し、それをすべて所有したいと願った5歳のころを想い出させる。
それがわたしがこの壮麗な「驚異の部屋」に感じる一番の魅力だ。
参考図書
(本文中で直接引用した『コレクションのシステム』は、わたしが訳文しました)
小宮正史『愉悦の蒐集 ヴァンダーカンマー』、集英社新書、二〇〇七年
John Elsner, with Roger Cardinal, The Cultures of Collecting, Harvard University Press, 1994.