Qorretcolorage - コレカラージュ

彩り重ねるコレカラの人生
大人のハッピーエイジングメディア

憧れのレジェンドたち

岡田宏三さん
(エグゼクティブアートクリエイター)

Text : Masami Watanabe
Photo : Kumiko Suzuki

岡田さんは日本を代表するアートディレクター/クリエイターのおひとり。皆さんがよく目にしているナビスコのチップスターなどのパッケージを30年数年来に渡って手がけられていらっしゃるベテラン。80歳を迎えられても、今なお第一線でモノ作りに携わる、そのバイタリティと元気の秘密に迫ります。

コレカラージュ(以下、コレ):岡田先生とは、都内のとあるバーで時々お会いしていましたが、そこでは仕事の肩書き等は関係のないお付き合いだったので、実はこんなに凄い方だとはずっと後になってから知ったんです。今日はいろいろとお話を伺えることを楽しみにしてきました。

岡田さん(以下、敬称略):そう言われてみればそうですね。いつもくだらない冗談と雑談ばかりだものね(笑)。今日は何でも聞いてください。

コレ:先生はいつお会いしても、本当にお元気ですよね。何か心がけてることはあるんですか?

岡田:朝晩のストレッチで足腰を弱らせないようにしていることと、近所を散歩して、お気に入りのバーをはしごしていることかな(笑)。

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コレ:岡田先生は、関西のご出身でしたね?

岡田:大阪生まれで、大学を卒業するまではずっと関西で暮らしていました。かつて、実家は大阪の帝塚山で建築業を営んでいて、子供の頃はかなり裕福な家庭だったんだけれど、あるとき親父が詐欺事件に巻き込まれてね。そこから人生が大きく変わっちゃったのね。

コレ:え!どうしちゃったのですか?

岡田:当時は戦後だから、軍需関係の工場の解体に関する入札か何かがあったようで、親父はそれに参加して相当な資金を投資したみたい。それが実は詳しくは解らないのですが詐欺だったということで、相当な事件だったらしく、会社や家は取り上げられてしまった。そうこうしていると、親父はそのストレスもあってか、事件からちょうど1年経った頃に亡くなってしまったのね。僕には兄がいて、彼は当時、金沢の学校で寮生活を送っていたのでうちにはいなかったんだけれど、残された母と僕は、住むところも失って親戚の家を点々とする生活になった。今、思い出しただけでもすごく嫌な思い出です。惨めだった。だからね、僕は建築科の評判が高かった大阪の都島工業高校に進学したわけ。学校の先生に、工業高校は職業訓練校だから、君はそっちに進んですぐに就職したほうがいいんじゃないかって言われてね。

コレ:少年時代に壮絶な体験をされていらっしゃったんですね。

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岡田:それで、その高校に進学して、3年生のときには就職先も決まっていたんだけれど、建築や美術に興味があった僕は、やっぱりどうしても大学に進学したくなったのね。そこから、必死にアルバイトをして、京都市立美術大学の図案科という、今でいうグラフィックデザイン科のような学科に進みました。大学時代は、多い時では7つのアルバイトを掛け持ちして、大忙し。あんなに行きたかった大学生活だったのに、実は受けた授業のことをあまり覚えていないのね(笑)。

コレ:7つも!どんなアルバイトをしていらっしゃったんですか?

岡田:例えばね、その頃に手書きのネクタイが少し流行したんだけれど、そのデザインを描いたり、繊維関係の新聞広告デザインもしたし、建築事務所からの依頼で完成予想図を描いたり、亀井硝子の食器のデザインなんかも何年もやっていました。あとはね、その頃の車のバックミラーなんかにみんながつけていた小さいマスコット人形の顔を描く内職なんかもした(笑)。とにかく、色々な仕事を引き受けて、学生なのにかなり稼ぎがよかった。新卒で就職した時の初任給は、アルバイト時代の3分の1以下だったもの!(笑)

コレ:いろいろなことを乗り越えて、学生の頃から先生は多才にご活躍されていたんですね。それで、京都美大を卒業されたあとは、どんな方向に?

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岡田: 東京に出て、レナウンという繊維の会社の宣伝部に就職をしました。働き始めて2〜3年が過ぎたある日、女子美(女子美術大学)の学生だった女学生がレナウンに就職したいと売り込みにやってきたことがあってね。当時、まだレナウンの宣伝部には女性はいなかったから、「いい人ですよ」なんて軽い感じで、上司に話したら、彼女の入社が決まっちゃった(笑)。後日、CMの製作をしていたときに、彼女のお兄さんが作曲をしているということで起用した楽曲が、あの一世を風靡した“イエーイイエーイイエイイエイ”のフレーズでお馴染みの「ワンサカ娘」という曲。作曲家とは、あの小林亜星さんだったというね(笑)。その後、亜星さんは売れっ子になっちゃって、皆さんの知るところになったというわけ。面白い時代だったね。

コレ:すごいエピソードですね。先生の時代は、今とは全然違う世界があったのでしょうね。日本がぐんぐん成長していった時代ですものね。

岡田:そうだね。いろいろな面白い経験はできる時代だったかもしれない。レナウンという会社も、当時の経営陣が慶応のラグビー部出身者が多くて、とても風通しがよく、自由な社風だったこともあって、良い環境にいることができたと思いますね。昭和40年頃に、会社であるプロジェクトがあって、それは日本全国の得意先のブティックの社長を連れて、ヨーロッパをまわるというものだったんだけれど、出発の直前に2〜3人の空きが出たので僕に行かないかと声がかかった。僕は、すぐに行くことを決めてついていったんだけど、当時はまだヨーロッパには日本人はほとんどいなかったし、見るもの、触れるものがどれも興味深くて、楽しくてしかたがなくなっちゃってね(笑)。3週間くらいの予定で行ったはずが、帰りたくなくなっちゃって、会社に電話してもう少し勉強のために滞在させてほしいと頼み込んで、残ることにした。それからは、デザイン学校に見学に行ったり、尊敬するデザイナーがいる会社に見学に行ったり、ヨーロッパ中を約半年間、旅して周りました。今から考えると大変ワガママなことをして、レナウンに迷惑をかけたものだと、遅まきながら反省をしています。

コレ:当時のレナウンは、理解のある素晴らしい会社だったのですね(笑)。
6ヶ月間のヨーロッパ滞在では、どんなところを訪れたんですか?

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岡田:スウェーデン、フランス、スイス、イタリア、ドイツ、オランダ、デンマーク・・・と各地を旅しました。イタリアは最南端の町にも行ったし、パリは複数回、滞在して、出てはまた戻ってみたりしてね。オランダや北欧では日本人はとても珍しかったので、「どこから来たの?」と聞かれ、「Japanから来た」というと、「それはどこだ?」ってみんなに聞かれた。けれど、ちょうど前の年の昭和39年に東京オリンピックがあったので、「Tokyoから来た」というと分かってくれる人も結構いて、大歓迎されたりしてね(笑)。

コレ:色々な場所を訪れたんですね。

岡田:行く先々で、何を見ても聞いてもすべてが新鮮で、毎日が充実していたね。それにね、当時の僕は案外女性にモテたので、何度かロマンスもあったりなんかしてね(笑)。

コレ:先生、流石ですね(笑)。どんな出会いがあったのでしょう?

岡田:ひとつはね、スイスのレマン湖を訪れた時に古城巡りをしていたら出会ったスイス人の学生さん。後ろからコツコツとハイヒールで歩く音が聞こえてね。気になったから思い切って話しかけてみた。そしたら、とても感じのよい女性で、ちょうどその日のパリ行きの列車でパリに出ると言う。僕も偶然、同じ列車でパリに行くところだったから、列車の出発時間までの1時間半程度の時間を2人で散歩して過ごしたのね。ちょうど駅の近くにレマン湖を見渡す巨大なリンゴ農園があって、そこでいろいろとお互いのことを話して、そのまま一緒にパリまで帰ったわけ。それからも、彼女の通っていた学校の近くの学生食堂に会いに行って食事をしたり、お茶を飲んだり、1週間くらいは仲良くしていたね。あとは、ドイツでの出会い。ボンという街を訪れた時に、ちょうどビアフェスティバルが開催されていたから、1人で飲んでいたのね。そしたら、カップル2組と女性1人のグループに声をかけられて、一緒に飲むことになった。つまり、男性2人と女性3人の5人だったから、僕はその1人だった女性とカップルのような感じになって、その後の数日、街を案内してもらったり、随分と親切にしてもらいました。きっとひとりで飲んでいた僕をかわいそうだと思ってくれたんだろうね(笑)。

コレ:スイスとドイツだなんて、グローバルにモテモテですね(笑)。

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岡田:実はもうひとつあって、スウェーデンを訪れたときにも面白い出会いがあった。大きな駅の案内所でその日の宿を探してもらっていたところで、イタリア人のグループに遭遇してね。意気投合してそのまま同じ宿でホームステイをすることに。向こうは、男女混合のグループで、それから毎晩、街に繰り出すときには僕も連れて行ってくれて、仲良くなったのね。一緒に遊んだのはとても楽しかったし、その中でもちょっとした男女の出会いがあったりね(笑)。

コレ:まぁ!刺激だらけのヨーロッパ旅行だったのですね。楽しそう(笑)。

岡田:ロマンス以外の出会いも沢山ありましたよ。例えば、スイスのツェルマットの麓でパリ在住の日本人のカメラマンと出会って、彼を訪ねてこの旅の中で2度目のパリを訪れることになるんだけれど、それまで僕はあまりパリが好きじゃなかったのに、彼のアトリエがある下町界隈を訪ねて数日を過ごしているうちに、パリにもこんなに素敵なところがあるんだなとパリを再発見した気がした。それからは、パリが大好きになったくらい、パリの印象がガラッと変わりましたね。とにかく、そんなこんなで、ヨーロッパ滞在を満喫して6ヶ月くらいが過ぎた頃、持っていった資金が尽きたので、ついに帰国の途につくことになったわけです。

コレ:それで、戻られてからはレナウンに復帰されたのですか?

岡田:そう、レナウンの上層部はみんな物わかりの良い、面白い人たちばかりだったから、半年も不在だったにもかかわらず宣伝部に復帰させてくれた。

コレ:良い会社と素敵な上司に恵まれていたんですね。でも、同時に、岡田先生にも運と才能があったということですよね。

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岡田:確かに当時のレナウンには素敵な先輩たちがたくさんいたし、面白い仕事が数多くかった印象はありますね。復帰してまもなく、映画制作会社から東洋紡のPR映画の製作に参加する話が入ってきたり、その後、続けて大阪万博の世界向けのPR映像の仕事が舞い込んできたのね。その頃からかな、僕は独立を考え始める。万博のあと、そのときの映像監督が小さな広告代理店を立ち上げることになって、僕はそこのデザイン関連の仕事のほとんどを引き受けることになってね。そこは、当時の三菱自動車のCMや広告を製作していたので、独立当初は順調なスタートだった。でも、数年経って、三菱自動車の宣伝部長が変わった時に、それまでの仕事が全く入って来なくなってしまった。怖い世界でしょう。それでも、僕はレナウン時代の関係で、講談社や集英社と繋がりがあったので、出版ページのレイアウトやデザインをやらせてもらったり、そこから派生して青山、六本木、赤坂の面白いお店のレポート等、企画から取材まで全部、多数のページをやらせてもらったり、面白いことをここでもやらせてもらうことになった。

コレ:チップスターのパッケージデザインやなごみ茶もその頃にスタートしたのかしら?

岡田:そう、そのもう少し後くらいからね。ナビスコのチップスターは、もう30年近く担当しているけれど、実は2代目のデザインからで、初代は僕が担当ではないのです。今でも1年に4回は季節限定フレーバーが発売になるので、毎年デザインを継続していて、気がつけば30数年(笑)。ずいぶん以前のなごみ茶に関してはね、最初はコカ・コーラ社が「玉露」とか「麦茶」みたいにお茶の種類をそのまま商品名にする案で進んでいたのを僕が「コカ・コーラさんは、もっとそれらしいオリジナリティのある商品名にしたほうが絶対にいい」と言い張った。たまたま、僕は“なごみ”という商標を取ってあったので、「なごみ茶」はどうかと提案して、そう命名されることに。他には、お酒関係のパッケージを手がけていることが多いね。薩摩酒造の「白波」とかニッカでは「デザイナーズボトルαβ」という超高級なブランデーとウィスキーのセットボトル。これは商品企画、ネーミング、ボトルデザイン、パッケージデザインのすべてを手がけるだとかね。

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コレ:みんなが多く目にしている商品の多くを岡田先生が手がけていらっしゃいますね。雪印乳業の毎日骨太やリーベンデールアイスクリームとか、ライオンの歯ブラシも先生ですよね?世界的なビッグコンペティションの“クリオ賞グランプリ”など多くの賞も受賞されていらっしゃいますし、長年に渡って国内外で建築や幅広くデザインに携わっていらっしゃるのは本当に素晴らしいと思います。幾つになっても衰えないそのバイタリティや好奇心はどこからくるのでしょう?先生の原動力は何ですか?

岡田:やっぱりね、僕をこれまで頑張らせてくれたのは、子供時代のマイナスの経験だと思う。戦後間もない頃の実家のトラブルで、本当に嫌な思いをしたからね。その記憶があるから、僕はあまり大阪が好きじゃなかった。今は、もうそんなことはないけれど、そんな思いがあったから大学を卒業後は率先して東京に出て来たといってもいいくらい。あの環境からとにかく脱出したかったし、二度と戻りたくなかったから、一生懸命に働いた気がする。

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コレ:なるほど。マイナスの出来事をプラスのエネルギーに換えられて、成功の原動力にされたんですね。では、デザインやコンセプトの発想はどうですか?どういう視点でいつも物事を見て、どんな風に考えられているのでしょうか?

岡田:常にそれまでの当たり前を覆したいのね。だからいつも新しい発想で、新しいものの考え方をしていきたいと思ってる。僕は、日本の伝統工芸や産地に根づいたもの作りの応援をしているんだけれど、例えば春日部の桐箱のデザインを手がけたときは、木の箱だからといって、ただ物を入れて、押し入れの中で収納として使われているだけではつまらないし、勿体ないと思ったのね。だから新しいデザインを提案して、もっともっと多様に使ってもらえるものを作った。そのひとつが角のない桐箱。これは作った当時、六本木のAXISで展覧会をしたら、それを見たニューヨークのギャラリーからもオファーをもらって、向こうでも展覧会をした。そうしたら、フィラデルフィア美術館が僕のそのときの作品を永久保存したいと言ってくれてね。嬉しかったね。

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コレ:わぁ、素晴らしいですね。先生の作られた桐箱は今見ても、全然古くないし、素敵。実用性も高そうで、とってもモダンに見えます。岡田先生は地方の工芸品のプロジェクトには、本当にたくさん携われていらっしゃいますね。コレカラージュでも「Wonderful Nippon」という連載をスタートさせたところなので、そのうち、ぜひそちらのトピックでもお話を伺いたいです(笑)。
ところで、いろんな経験をされてきた岡田先生だからこそ、今の日本で気になることや現代の若い世代に伝えたいことはありますか?

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岡田:日本文化は本当に素晴らしいと思うので、日本の心ある文化の本質を若い世代には広めていってもらいたいと常々感じているね。僕は茶道が好きで、昔からお茶会に出席したりしているんだけれど、以前、大腿骨を骨折してからは正座ができなくなってしまったのね。あるお茶会に行ったとき、僕は入り口で正座ができないけれどぜひ参加したいという事情をお話しして、断わりを取ってからお茶室に入った。受付の方も、席についた周りの方々も、皆さん事情を理解して快く迎えてくれたのに、お点前をする主催者が出てきたら、その方が突然、僕に向かって「こういう席では正座をして頂かないと困ります」と言う。みんなの前でですよ。びっくりしちゃってね。見兼ねて、近くに座っていた紳士が事情を代弁してくれて、その場は治まったのだけれど、その主催者からは最後までひと言のお詫びや気遣いの言葉もなかった。千利休のお茶は、家庭にある茶碗でお茶を楽しむところから始まったもので、本来はルールが優先されるガチガチのものではなかったはず。最近ではビジネスのために、本質が失われているお教室もあるんだなぁと、とても残念に感じたね。
それと、最近の若い人はいいところもいっぱいあるけれど、問題意識の薄さには疑問を感じる。日本をなんとかする、日本のデザインやモノ、良いところをどうやって伸ばしていこうかと本気で考えている人が少ない気がして勿体ないなと思う。技術が発展しているから、深く考えないで形をつくって、なんとなく“デザイン”としてしまえるでしょう。それはとても残念なことで、こういう場面でももっと本質を考えてもの作りをしないと、世界に通用するものはできないと思うのね。

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コレ:岡田先生に言われると、とても重みがありますね。
最後に、今、そして、これからやりたいことを聞かせてください。

岡田:今年、僕が展覧会に出した作品は「宇宙3丁目のご近所さん」というもの。これには、実はいろいろな思いを込めていて、いろんな人がいろんなモノやコトを受け入れて、うまく共存していけたら、まったく新しい平和な世界ができるのではないか、という提案なんです。作品のタイトルには、あえて“宇宙”という言葉を使って、ちょっとのほほんとしたイメージにしているけど、実は強いメッセージを突きつけている。僕は、そんな世の中がいつか本当になることを願って、今も、これからも、例えば和紙や木材のような日本特有の素材を生かして、今の時代に合ったデザインの提案をしていきたいと思っています。

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コレ:岡田先生はこれからもずっと第一線でお仕事をされるのでしょうね。元気に、長生きしてくださいね。まだまだ岡田先生の作品を見てみたいです。

岡田:ありがとう。頑張るね。そして、またバーで会いましょう(笑)。僕は今でも、机で物事を考えることはほとんどない。お酒を飲みながら、人とのコミュニケーションの中で、ふっとインスピレーションが湧くタイプだから、また時々、一杯やりましょう(笑)。

コレ:もちろんです。喜んで!(笑)

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岡田 宏三
Kouzo Okada
1934年大阪生まれ。
大阪市立都島工業高校建築科から京都市立美術大学図案科を経て、(株)レナウン宣伝課に入社。広告や店舗デザインなどに携わった後、岡田デザイン事務所を設立。現在は、社名を(株)オーディに変更。国内外で、数多くの建築やデザインに携わり、受賞歴も多い。現在も、第一線で活躍中。
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