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セカイ通信 LONDON

ヴィクトリア&アルバート博物館で

Text : Moe Ashikaga

工芸とはなにか 芸術とはなにか

今回は特別大きな風呂敷を広げよう。

「工芸と芸術はどこが違うのか」について考えてみたいと思っているのだ。

深い、深すぎますね...

産業革命の時代に設立されたヴィクトリア&アルバート博物館

ヒントを与えてくれるのが、ロンドンはサウス・ケンジントンにあるヴィクトリア&アルバート博物館だ。
世界最大の工芸・デザインの殿堂として絶大な人気を誇っている。ここをロンドンで一番好きなミュージアムとして挙げる人も少なくないと聞く。

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ヴィクトリア&アルバート博物館正面

19世紀、ヴィクトリア女王の治世。
この時代の英国には、産業革命の弊害で、工場大量生産の安価だが粗悪な品があふれていた。
工場大量生産が盛んになったことにより職人は職を失い、都市に流入した労働者の生活水準は劣悪をきわめた。

ちなみに悪名高き英国料理は、この時代の労働者階級が家庭料理をしたり郷土の味を次世代に伝える余裕を失ったことが原因だと考える人もいる。
興味深いですね。

そういった庶民の惨状に心を痛め、労働者階級の啓蒙と美的生活向上のためにアーツ&クラフツ運動を始めたのが、ヴィクトリア&アルバート博物館にも作品を残すウィリアム・モリスなどの社会主義者だった(ウィリアム・モリスは当博物館設立には直接の関わりはない)。

博物館設立当時のモットーは、

一、アートを万人のものにする
一、労働者を教育し、英国デザインと産業を鼓舞する

の2点で、これは現在も変わっていない。

古今東西、優れた工芸・デザインの殿堂として

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中庭

わたしもこの美しい博物館が大好きだ。
アストン・ウェッブによる正面ファサード、中庭に面した北ファサードはフランシス・フォウク、そして前出のウィリアム・モリスの残したダイニングルームもある。

収蔵品・展示物としては、世界中のありとあらゆる時代から集められた書籍、陶磁器、素描、服飾品、家具、ガラス製品、宝石、金属製品、絵画(水彩、ミニアチュア、油絵)、写真、版画、彫刻、布地、演劇、建築物...

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鋳造品の間

2階分ぶち抜きのホールに立つトラヤヌス帝の記念柱レプリカ。無数の引き出しに納められた銀製カトラリー。中東の絨毯。ガンダーラ石仏。中世の聖遺物箱やトリプティック。シルクロードに沿った国々の三彩。シャネルのイヴニングドレス。王妃のティアラ。チッペンデールのコピー。縄文式火炎土器、鎧、歌川国芳の浮世絵、ロリータファッションも...
古今東西2000年の歴史を網羅した「工芸・デザイン」の宝の山。

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ドレス 18世紀

一方でヴィクトリア&アルバート博物館は、ラファエロのカルトンやコンスタブルのコレクション、ロダンの彫刻なども多数収蔵する。

ラファエロやコンスタブル、ロダンは一流の「芸術家」として有名だ。
ここでふと考える人は少なくないのではないか。

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オーギュスト・ロダン『洗礼者ヨハネ』

「工芸と芸術はそもそもなにが違うの?」
「これが工芸で、こちらが芸術と区別されるのはなぜ?」
「工芸ってなに?」
「芸術ってなに?」

こういう問いは、われわれをそわそわさせ、困惑させ、自分が囚われている「常識」という檻の中から今すぐ出て自由になりたいという欲望を誘う。

もの作りの起源

われわれ人間はいったいいつ、どんな動機で「もの」を作り始めたのだろうか。

その起源は、言語や家族や貨幣の始まりと同じように太古の闇の中に消えていて、決して知ることはできない。

手がかりはある。
「もの作り」をしない社会は今まで存在しなかった。いや、もしかしたら存在したかもしれないが、そういう社会は大昔に淘汰されてしまったのだ。

われわれの先祖は刃物を研ぎ、保存容器を作り、布を織り、家を建てた。そこに「目的のない」「特定の機能を持たない」ものはひとつとしてなかった。

また、絵を描き、像を彫った。これらにも「呪術」という具体的な機能があった。雨を降らせ、豊穣と狩猟の成功を望み、多産を祈り、死後の安楽を願い、敵を呪うのが目的だ。

ヴィクトリア&アルバート博物館の展示物を見ていると、もの作りには大きく分けてふたつの流れがあるように感じる。
より洗練された工芸へと発達した系統と、呪術系機能によって芸術へと発達した系統だ。

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エドワード・バーン=ジョーンズ ピアノ

工芸とはなにか

アーツ&クラフツ運動に影響を受け、20世紀初頭、民藝運動の中心人物となった柳宗悦は、その著書『民藝とは何か』の中で、工芸をこのように定義している。

工芸は実用を生命とする、と。

「工芸の美を決定するものは、それがどれだけ美的に作られているかということではなく、それがどれだけ用途のために作られているかということである」(『民藝とは何か』より)

われわれの祖先がものを作り始めたころから現在まで、一貫して実用を生命としてきた「工芸品」。これらが実用品だからといって、美を欠いているかというとそうではない。

「ここに用というのは、単にものへの用のみではないのです。それは同時に心の用とならねばなりません。(中略)もし功利的な義でのみ解するなら、私達は形を選ばず色を用いず模様をも棄ててもいいのでしょう。だがかかるものを真の用と呼ぶことはできないのです。心に仕えない時、物にも半ば仕えていないのだと知らねばなりません。なぜなら物心の二は常に結ばれているからです。模様も形も色も皆用のなくてはならぬ一部なのです。美もここでは用なのです。用を助ける意味において美の価値が増してきます」(同上)
(「用」は、「用途」くらいの意味でとらえてください)

「美」も工芸の実用の重要な一部分なのである。

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銀の匙のコレクション一部

工芸は実用を生命とする現実である

次に福田恆存の『藝術とは何か』をひもといてみよう。

その前に、「意匠」という言葉について明らかにしておきたい。

意匠とは、「工夫をめぐらすこと。物品の外観を美しくするため、その形、色、模様、配置などについて新しい工夫を凝らすこと。その装飾的考案。デザイン」(Weblio辞書より)である。

工芸と芸術の違いは福田恆存によればずばりこうだ。

「意匠の裏にはなにもない。が、仮面の裏には素面がある。裏側に何もないというのは、意匠がすでにそのままで現実であるということです」(『藝術とは何か』78頁)

工芸と芸術を定義するのにこれよりもすっきりした説明があるだろうか。

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ローラン・デルヴォー『ウェルトゥムヌスとポーモーラー』

つまり、工芸・デザインは、現実ありのままで直球勝負をする「裏には何もないもの」のことだ。柳宗悦のとおり、それは実用を生命とするのだから。

宣伝ポスターのデザインを思い浮かべてみよう。ポスターには「情報を、説明なしで正確に伝える」というはっきりした用途があり、その裏には何もないほうがその性質上優れた作品なのである。

「装飾は、すなわち意匠は、たんに芸術めいた現実にすぎないのです。それにひきかえ、素面のうえにかぶせられながら、しかも現実の素面とは異なる仮面のみが、真の芸術なのであります。たとえ素面が仮面となったとしても、それはいわばあまりにも現実めいた芸術というだけの話です。われわれは芸術めいた現実と現実めいた芸術と、この両者を絶対に混同してはなりません」(同上78頁)

では芸術とはなにか

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中島晴美『反転しながら増殖する形態―1101 』

福田恆存は、上で見たように工芸の裏にはなにもないと述べた。
一方で、芸術とは「仮面の裏には素面がある」ものだというが、いったいどういうことだろう。

19世紀イギリスの詩人/画家、ウィリアム・ブレイクは、ヴィクトリア&アルバート博物館に収蔵されているコンスタブルの『楡の木の習作』を見てこう言ったそうだ。

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ジョン・コンスタブル『楡の木の習作』

”Why, this is not drawing, but inspiration”

「おお、これは素描なんかじゃない、霊感そのものだ」

さすが詩人だ。たったこれだけの文で真理を突いている。
この印象的なアフォリズムから導くと、芸術とはこういうものだろうか。

「それは客体的な現実でもなければ、主体のかわにおける現実でもないー両者の融合が生み出す第三の現実であります。人間が自然に合一し、みずから自然物となるとは、そういうことをいうのであり、その自覚における陶酔に呪術の最高目的があったのであります」(同上21頁)

庭の土から生えている現実の楡の木でもなければ、コンスタブルが故郷サフォークの光の中で見た楡の木という現実でもない。両者の融合が生み出す第三の現実、つまりこの場合は「霊感」、これが芸術のかぶっている「仮面」、芸術を芸術たらしめる「仮面」なのではないか。

わかりにくい話なのでもうひとつ例を。
池上英洋著の『ルネサンス 歴史と芸術の物語』で面白い話を読んだ。
西洋絵画の原点は宗教画にあり、それらキリスト教絵画は、はじめ「工芸品」であったというのだ。

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磔刑のキリスト 12世紀

周知のように、キリスト教は偶像崇拝を禁止している。しかし、識字率の低かった時代、キリスト教布教は絵画に頼らざるをえず、イエス・キリストや聖母マリア、聖人を描いた、例えばイコンなどを盛んに生産するようになる。教会はこれらが「偶像」扱いされたら立場的にまずい。そこで、

「イコンに描かれた像それ自体は物体ではなく、よって聖なる崇拝対象でもなく、ただの”聖像を宿す器”にすぎない」(『第2章 古代ローマの理想化』より)

という解釈がなされたのだ。

つまり、イコンに描かれた像は「聖なるイメージ」という単なる意匠、実用品、現実なのである。
ゆえにイコン製作者には、対象をより霊的に、より美しく、より独創的に描くという自由はなく、彼らは裏に何もない「意匠」をただただコピーし続けただけだった。

「人々がたとえイコンに向かって拝んでいたとしても、イコンそれ自体を崇拝しているのではなく、その像を通じて、その向こうにある”聖なるもの”を拝んでいるという説明がなされたわけです」(同上)

しかしやがて人々が拝んでいる「意匠の裏にあるなにか」を画面上に描くことが許される時代が訪れた。人間中心主義、ルネサンスだ。

それまでは職人枠だった「絵を描く人」「彫像を彫る人」が徐々に「芸術家」になった。
職人を芸術家に変えたのは、その向こうにある何か、例えば陶酔、聖なるもの、あるいはブレイクの「霊性」を、シンボルとして画面上に再現する能力だ。

芸術とは人間感情のシンボル化

コンスタブルの「楡の木の習作」が、庭にある現実の楡の木とも、コンスタブルが観察した楡の木とも違っているのは、その向こうにある何か、ブレイクのいう「霊性」をはっきり画面上に宿しているからである。

アメリカの哲学者スーザン・ランガーは、芸術とは人間感情のシンボル化と定義した。

素面のうえにかぶせられながら、しかも現実の素面とは異なる仮面、つまり人間感情のシンボル化されたものが、真の芸術...

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菩薩頭部 2−3世紀

工芸とは需要に対する一種の回答であり、芸術は永遠の問いであるとはよくいわれる。その永遠の問い自体がそのまま同時に回答でもなくてはならない問いだ。

ヴィクトリア&アルバート博物館は永遠の問いをわれわれに向かって投げてくる。
おそらくこの博物館全体が一個の巨大な芸術なのだ。

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ヘレフォードの内陣仕切り 19世紀

参考図書:
柳宗悦「民藝とは何か」 電子図書版
福田恆存「藝術とは何か」中公文庫 1977
佐々木健一「美学への招待」中公新書 電子図書版
スザンヌ・K・ランガー「芸術とは何か」 岩波新書 1967
池上英洋「ルネサンス 歴史と芸術の物語」光文社 電子図書版

足利 モエ
Moe Ashikaga
神戸生まれの神戸育ち。中東、北米での遊学を経て、13年間のベルギー生活の後、2011年から英国住まい。外国に縁の深い半生でしたが、将来は神戸で暮らす夢を見ています。 趣味は放蕩旅行とクラシックバレエ。好物はお鮨。「セカイ通信ロンドン」では、ロンドンの美術館やギャラリーなど、素敵なモノを囲い込んだ場所を無節操に好事家の視点で紹介いたします。